共産党による権力掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 00:33 UTC 版)
「ハンガリー第二共和国」の記事における「共産党による権力掌握」の解説
1947年2月に独立小農業者党書記長コヴァーチ・ベーラが国家に対するクーデター容疑でソ連軍に逮捕された。共産党は小農業者党の再編を要求し、コヴァーチに近い右派は議員辞職を余儀なくされた。5月にはナジ首相が亡命に追い込まれ、ディンニェーシュ・ラヨシュが後継首相となったが、閣僚の大半は左派連合であった上、小農業者党も分裂し、連立はほとんど名ばかりの物となった。7月にはマーシャル・プラン受け入れ会議の参加要請がアメリカから行われたが、ソ連が反対の意向を示し、共産党は反対に回ったことで参加しないことになった。 8月には「ファシスト、戦犯、民主主義者とその直系」の投票権を排除し、民族独立戦線を改組した人民戦線が候補者を指名する選挙が行われた。共産党を含む左派連合は第一党になり、連立政権を樹立した。しかし投票者の二割を閉め出したと言われる不正選挙にもかかわらず、連立与党は過半数を得られなかった上に、共産党の得票は22%にとどまった。しかし同年のコミンフォルムで共産党政権は一党独裁こそが正しい人民民主主義とされ、ライクをはじめとする共産党内部の連立派も方針転換を行った。1948年6月、共産党は社会民主党と合同してハンガリー勤労者党が成立した。これはハンガリーの人口900万人の内、100万人を党員とする巨大政党であった。7月、大統領ティルディも失脚し、小農業者党左派のドビ・イシュトヴァーン内閣が成立した。
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