第二共和政及び内戦
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「サンティアゴ・カリーリョ」の記事における「第二共和政及び内戦」の解説
1932年に社会主義青年執行委員会に加わり、機関紙『レノバシオン』の編集者に就く。組織内では左派に属していた。社会主義青年同盟が急進主義色を強めた1933年には事務局長に就任。しかし、労働者同盟による蜂起(所謂十月革命)に関与した廉で、1934年10月から1936年2月までの1年4ヶ月間、投獄を余儀無くされる。 釈放後の1936年3月、社会主義青年同盟幹部と共にモスクワへ赴き、共産主義青年インターナショナルの指導者らに謁見、社会主義系及び共産主義系青年同盟の統合に力を尽くす。この動きは後に、統一社会主義青年同盟(Juventudes Socialistas Unificadas)の結成に繋がる事となる。 内戦勃発後、スペイン共産党への入党を決意。内戦ではソビエト連邦を熱烈に支持し、1936年11月7日にマドリード防衛評議会の共和国側評議員に選ばれる。同評議会はマドリードがファシスト側に包囲されている間、最高機関としての役割を担った。 ネフリン政権及びその支持者に対する内部クーデターにより、1939年3月マドリードが陥落した後も、共産党は第二次世界大戦まで抵抗運動の継続を希望。クーデターを先導したのはスペイン社会労働党員でもあった父ウェンセルサンだが、カリーリョ自身はクーデターを「反革命」や「裏切り」と見ており、これ以後父と絶縁するに至る。 スペイン第二共和政崩壊後は、フランシス・フランコが独裁者として軍政を率いる事となる。このためパリへの亡命を余儀無くされ、党の再建に奔走する。亡命期間は38年間に及び、その殆どを同地の他、ソ連やイタリアなどで過ごす。
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