第二共和国時代の政党体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 13:46 UTC 版)
「韓国における政党史」の記事における「第二共和国時代の政党体制」の解説
1960年3月15日の大統領選挙に際して行なわれた大規模な不正に端を発した大規模デモ、所謂「四月革命」によって李承晩大統領は退陣に追い込まれ、与党自由党は事実上解党された。李承晩退陣後に行なわれた第5代総選挙で、民主党が7割以上の議席を獲得して圧勝し、与党となった。 革新勢力は社会大衆党や韓国社会党を結成して選挙に臨んだが、民議院で5議席、参議院で2議席と惨敗し、第一野党とみなすことが出来るだけの政党はなかった。無所属は民主党に次ぐ第二勢力の議席を得たが、大部分は民主党公認が得られず出馬した候補で、選挙後に大部分が民主党に入党した。第二共和国時代の政党体制は、与党となった民主党内で1955年の結成当初から続いていた派閥対立(新派VS旧派)が李承晩政権崩壊で一層激しくなったことで機能不全を起こし、結局、国務総理の座を新派に奪われた尹潽善大統領を中心とする民国党系の旧派が、同年8月に民主党から別れ、翌年2月に新たに「新民党」を結成した(政党登録自体は60年10月に行われている)。 政権与党の分裂で政局が混乱を極める中、1961年5月に軍事クーデター(5・16軍事クーデター)が発生、全ての政党が解散された上、国会も解散されたため、韓国における政党政治は一時中断することになった。
※この「第二共和国時代の政党体制」の解説は、「韓国における政党史」の解説の一部です。
「第二共和国時代の政党体制」を含む「韓国における政党史」の記事については、「韓国における政党史」の概要を参照ください。
- 第二共和国時代の政党体制のページへのリンク