第二共和制から第三共和制へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 02:34 UTC 版)
「トルコ大国民議会」の記事における「第二共和制から第三共和制へ」の解説
1961年には新憲法が制定され、第一共和制の1924年憲法が独裁体制を招いた反省から、大国民議会の最高権限は緩和された上、従来の議会に加えて上院が設置され、二院制に改められた。司法が立法から完全に独立して三権分立が確立し、また、議会の独走を防ぐために、立法の合憲性を判断し、違憲と判断された法を破棄する権限をもつ憲法裁判所が最高裁判所とは別に設立された。 同年、民政移管とともに総選挙が実施され、共和人民党が第一党となったが定数450に対して173議席を得るに留まり、小党が乱立した。これは、第一党に対する権力独占を防ぐため、比例代表制が導入された結果である。また、旧民主党グループの公正党が158議席を占めて第二党につけ、第二共和制において多党制は完全に定着することになった。 しかし、第二共和制では小党の乱立が問題となることとなった。議会には多くの政党がひしめき、さらにイスラム主義(イスラム的原理の政治への導入を目指す主義)を掲げる国民救済党や、排外的なトルコ民族主義の政党民族主義者行動党が常に数十議席を獲得して連立政権組閣工作のキャスティング・ボートを握る一方、共和人民党・公正党の二大政党の指導力が低下した。さらに1970年代末に入ると議会外まで巻き込んだ左右対立と宗教派・世俗派の対立が激化し、政局は混乱した。 この状況を収拾すべく、1980年にトルコ共和国の歴史において二度目となる軍部のクーデターが敢行され、第二共和制は終焉した。このクーデターにおいて、軍部は危機的状況を招いた政治家の無能を糾弾し、既存の政党を全て解散させた。議会の小党乱立の弊害という反省に立ち制定されたのが現行のトルコ共和国憲法であり、上院は消滅してトルコの立法府は再び一院制に戻ることになった。
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