第二共和制とスペイン内戦
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「ブラス・インファンテ」の記事における「第二共和制とスペイン内戦」の解説
王政が再び倒れ第二共和制に移行すると、インファンテはアンダルシア独立と連邦制移行を推進する運動を活発化させた。1931年に共和政府からコルデ・リオの公証人に任命されたインファンテは、地域政党の一つであるアンダルシア自由党に参加して初代党首となった。同党は連邦主義、反中央集権、選挙制度・教育・経済政策の見直しなどを主な主張として掲げた。アンダルシアの自治運動は複数の政党が乱立した為に必ずしも上手くは行かなかったが、その中でインファンテはアンダルシア独立に関する理論を体系化していった。 1934年に彼はより独立運動を進めているカタルーニャの州政府を訪問して意見を交換している。1936年に行われた総選挙でインファンテを中心とするアンダルシア独立運動の諸政党は人民戦線の一翼を担う形で選挙に挑んだ。従って人民戦線が政権を獲得すると独立運動も大きな前進を見せた。1934年7月5日、人民戦線政府はアンダルシア自治共和国樹立を承認して、その初代首相にインファンテを指名した。だがその数日後に中央集権を望む国家主義勢力によってスペイン内戦が引き起こされる。 スペイン内戦の末、共和制はファシストの支援を受けたフランコ軍に倒され、インファンテも反乱軍のセビリャ占領の際に拘束された。フランコが命じた処刑リストの中にはインファンテも加えられていた。自由主義者にして、地方民族の指導者であるインファンテは重複してリストに二回載せられていたという。1936年8月11日、セビリア郊外のカルモナに向かう街道でインファンテの銃殺が執行された。 現在、フランコ支配の終わったスペインで地方自治が見直される中、アンダルシア独立に殉教したインファンテは民族的英雄と見なされている。
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