第二共和国の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 00:33 UTC 版)
「ハンガリー第二共和国」の記事における「第二共和国の崩壊」の解説
1949年5月の総選挙では共産党を中心とする人民戦線が圧勝した。その頃ユーゴスラビアがコミンフォルムから除名されたことをうけ、ソ連および東欧で反チトーキャンペーンが開始されていた。6月にはライクら民族派(旧連立派)はユーゴスラビアのスパイなどの容疑をかけられ粛清された。8月14日にはラーコシ内閣が成立し、8月18日、スターリン憲法を基軸とした人民共和国憲法が可決され、2日後に施行された。国名もハンガリー人民共和国に変更され、労働者及び小作農のための国家、全労働者による人民民主主義国家として、社会主義を到達点として国家を展開していくこととなった。そして、赤い星や鎌と槌、麦穂を含めた新しい国章が採択されて、ハンガリー第二共和国は終焉を迎えた。
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