第二共和制の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:45 UTC 版)
詳細は「ギリシャ第二共和政」を参照 ヴェニゼロスはパリ講和会議に参加すると小アジア西部、トラキア東部、イピロス北部の要求をおこなったが、イタリア軍がアンタルヤに上陸したため、1919年5月、ギリシャ軍も小アジアへ上陸、このため翌年のセーブル条約でイズミルを含む小アジア西部のギリシャ割譲を得たがギリシャ軍はセーブル条約で規定されて箇所を越え、さらなる領土拡大を目指していた。この時、ヴェニゼロスは選挙で破れ、コンスタンディノス1世による親政により、ヴェニゼロス派が政府要員から追い出されていたが、この方針は維持した。 小アジアではギリシャ人のポンドス共和国、クルド人によるクルド国家などトルコの少数民族が自らの国家設立を企んだ活動をしていたが、これを危機としたトルコ人およびムスタファ・ケマルらはアンカラで革命政権を樹立、各地の分離活動の鎮圧に消極的なオスマン帝国に変わり活動を開始した。ギリシャ軍は小アジアの各地を占領してはいたが、革命政権はこれに反撃、1923年9月までにギリシャ軍は追い出されることとなった。 この敗北により、再びヴェニゼロス派の勢いが増すこととなり、ヴェニゼロス派のニコラオス・プラスティラスがクーデターを行うことにより国王コンスタンディノス2世は退位、トルコでの敗北の責任を取って、6名が処刑された。1924年4月、ヴェニゼロス派は王制の信を問う国民選挙を開始、国内での王党派、ヴェニゼロス派の対立に決着を狙ったが、これは見事にヴェニゼロス派の思惑通り、王制廃止、共和政移行が決定された。結局、セーブル条約で得た小アジアの領土は1923年7月に結ばれたローザンヌ条約により失われたが、ドデカネス諸島を除くエーゲ海の島嶼を得ることとなり、さらにギリシャ・トルコ間で住民交換を行い、キリスト教徒はギリシャへ、イスラム教徒はトルコへそれぞれ移動することとなった。
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