民族の指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 02:25 UTC 版)
「総統#ドイツ」も参照 ナチズムではドイツ民族という「種に即した生存形式」は「伝統的意味における国家ではなく、ただ一人の指導者と被指導者団から成る民族共同体」であると考えられていた。指導者は、種としての同一性(Artgleichheit)を持つ民族すべての人々を指導(Führung)することによって、民族共同体を再形成させて「民族としての最終目標」へと導く存在であった。 ヒトラーの著書「我が闘争」では、「民主主義的大衆思想を拒否し、最良の民族、それ故、最高の人間にこの世界の支配権を与えようとする世界観は、この民族の中にあっても、同じ貴族主義的原理に基づき、最良の人物に民族の指導と最高の影響力を保障するようにしなければならない」としている。すなわち民族の一般人は民族全体の問題を洞察できないため、「(民族全体の)諸力を、しかるべき課題に向けて、適切な方法で、適切な場で、適切な時期に投入する」能力を持つ指導者が必要であると説明されている。指導者は民族共同体が必要とする時「必然的現象」により出現する、民族共同体の唯一の代表者であった。指導者は民族の最良の血から生まれた民族最良の頭脳を持つ無謬の存在であり、その権威は法や行為の結果ではなく、「民族の存在」そのものから発せられるとした。ただし、この無謬性は絶対主義に見られる神の恩寵によるものではなく、民族共同体の性格から生まれるものとされた。 ナチ時代の法学者は指導者は法律によって支配されるものではないとし、法の上に置かれた。また法源が民族共同体の秩序に発し、指導者の示す法原理が最高法規となるとした上で、国家はその法原理を実現するための存在であるとした。このため表明されたヒトラーの意思は、いかなる法的根拠や副署を持たなくても、憲法的性格を持つものとなった。これを法務担当国家弁務官を勤めたハンス・フランクは「一切の法は指導者から由来する」と端的に語っている。 指導者は最も独立した人間であり、いかなる者に服することも、また責任を負うこともない。ただ自分の良心にのみ責任を負う。そして、この良心はただ一つの命令権者を持っている。即ち、われわれの民族がそうである。 — アドルフ・ヒトラー、1935年11月10日付フェルキッシャー・ベオバハター
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