民族の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:04 UTC 版)
「モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻」の記事における「民族の変化」の解説
「ヴォルガ・ブルガール#ブルガール論争」も参照 ヴォルガ・ブルガールの人口の多くはムスリムであった。このため、ブルガールを征服したモンゴル人や、移住してきたキプチャク人の多くがその影響を受けてイスラム教に改宗した。一方で、ジョチ・ウルスのムスリムが使う言葉はキプチャク語(英語版)になってゆき、キプチャク語はヴォルガ・ブルガールのムスリムをはじめジョチ・ウルスの支配地域の貴族やムスリムにも受け容れられた。キプチャク語とブルガール語の混交によって、ジョチ・ウルスの書き言葉である古タタール語(英語版)が生まれ、19世紀頃まで書き言葉として用いられてきた。ここから、現在のタタール語が生まれている。一方で、非イスラム教徒のブルガール人は14世紀頃までブルガール語を使い続け、ブルガール人が移り住んだカマ川流域の言語であったマリ語からも影響を受け、現在のチュヴァシ語となった。 ただし、モンゴル人の支配下においてもヴォルガ・ブルガールの民族構成(主にブルガール人、部分的にフィン人)には変化がなかったとする研究もある。また一方で、ヴォルガ・ブルガールにはキプチャク人やロシア人が移住させられ民族構成に変化があったという研究もある。 ヴォルガ・ブルガールのムスリム共同体は、自身を「ムスリム」(Möselmannar)と呼ばれることを好んだが、同じムスリムのキプチャク人と区別するためにブルガール語を使い続け、19世紀になるまでタタール人と自称しなかった。ロシアの文献も、古くはヴォルガ・ブルガールと遊牧民のタタール人とを区別していたが、後にテュルク系ムスリム一般を指してタタール人と呼ぶようになっている。
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