ブルガール論争
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「ヴォルガ・ブルガール」の記事における「ブルガール論争」の解説
ヴォルガ・ブルガールの故地は、1552年のカザン・ハン国の滅亡により、ロシア・ツァーリ国に併合されたが、ヴォルガ川中流域の最初のムスリム国家であるヴォルガ・ブルガールの記憶は、その後も当地のムスリム住民のアイデンティティをめぐる論争の的になった。 19世紀初頭には、歴史家のフサメッティン・ブルガーリーによる『ブルガール諸史(Tawārikh-i Bulghāriyya)』が著されたほか、19世紀後半にカザン周辺で活動したイスラーム神秘主義教団のヴァイソフ神軍も、自らをヴォルガ・ブルガールの直系として位置付けた。ヴォルガ川中流域の地域的、歴史的一体性を強調する19世紀以降のこうした動きは、同時代に発展した汎テュルク主義の主張と対立し、ヴォルガ川中流域のムスリム知識人の間で大きな論争となった。 また、キリスト教徒であるチュヴァシ人知識人の間でも、19世紀後半のロシア東洋学の発展により、古代のブルガール語がチュヴァシ語と近縁であることが明らかとなると、自らの民族起源をヴォルガ・ブルガールに求める意識が高まった。 一方で、1940年代のソ連民族学では、ヴォルガ・ブルガールを、ソ連領内で「自生的」に発展した民族集団として位置付け、その子孫をタタール人に同定し、チュヴァシ人の民族起源をフィン・ウゴル系先住民族に位置付ける学説が主流となった。こうした学説の背景には、征服者であるモンゴル帝国の系譜を、ソ連邦内諸民族の民族起源説から排除する政治的な意図があった。これに反発したチュヴァシ人知識人は、ブルガール起源説を発展させ、1970年代には、タタール人知識人との間で、ブルガールの後継民族を巡る民族起源論争を繰り広げた。 また、ソ連邦の崩壊後、タタールスタン共和国では、タタール人の民族起源についての関心が高まり、ジョチ・ウルスからの連続性を強調する立場(タタール派)と、ヴォルガ川中流域という地域的連続性を強調する立場(ブルガール派)の間で大きな論争となった。
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