民族起源説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 01:08 UTC 版)
チュヴァシ人の祖先は、10世紀にブルガール人のうちヴォルガ・ブルガール国を建国したヴォルガ・ブルガール系のスアル部族、サビル部族にさかのぼると考えられている。モンゴルによるヴォルガ地域の征服後、ブルガール人の一部は、北方のフィン・ウゴル系諸民族と混血して、15世紀から16世紀ごろに、現在のチュヴァシ人の原型が形成されたとみられる。チュヴァシ人は、15世紀にカザン・ハン国の支配下に置かれ、イスラーム化した一部は現在のタタール人と同化したとされる。そのために人種は元来はモンゴロイドであったが、現在は混血を重ねた結果としてコーカソイドに属する。 16世紀にチュヴァシ人の居住地域はロシア帝国に征服され、住民の正教への改宗が進んだ。1871年には、キリル文字を使ったチュヴァシ語の正書法が制定され、チュヴァシ人知識人層が形成されるようになった。 19世紀後半のロシア東洋学の発展により、古代のブルガール語がチュヴァシ語と近縁であることが明らかとなると、チュヴァシ人知識人の間で、自らの民族起源をヴォルガ・ブルガール国に求める意識が高まった。 一方で、1940年代のソ連民族学では、ブルガール人の子孫をタタール人に同定し、チュヴァシ人の民族起源をフィン・ウゴル系先住民族に位置づける学説が主流となった。こうした学説の背景には、ヴォルガ・ブルガール国を、ソ連領内で「自生的」に発展した民族集団として位置づけ、征服者であるモンゴル帝国の系譜を、ソ連邦内諸民族の民族起源説から排除する政治的な意図があった。これに反発したチュヴァシ人知識人は、ブルガール起源説を発展させ、1970年代には、タタール人知識人との間で、ブルガールの後継民族を巡る民族起源論争を繰り広げた。
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