民族運動の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:30 UTC 版)
貿易の自由化に伴うアメリカ合衆国やイギリスとの貿易の拡大は、18世紀以来の高等教育の拡充と合わせて19世紀には自由主義思想がフィリピン原住民の間にも流入した。19世紀末になると、フィリピンにおける有産階級が成長したことや、世界各地を結ぶ航路が整備されたことなどを背景として、フィリピンからスペインへ留学する層が形成されることになった。こうした経験を通じてフィリピンにおけるナショナリズム形成の重要性を感じた留学生、知識人は、徐々に本国政府への改革要求を強め、民族運動を展開していった。 運動は当初フィリピン人の神父によって担われたが、1872年1月に勃発したカビテ暴動をきっかけに、総督によって進歩的なフィリピン人の神父や知識人が弾圧されたことは、スペイン当局のフィリピン・ナショナリズムへの弾圧を強化する事態を招いた。続いて1882年にはマルセロ・ヒラリオ・デル・ピラールによってタガログ語の日刊紙『タガログ毎日』が創刊され、フィリピン本土とスペインに留学したフィリピン人留学生によってプロパガンダ運動と呼ばれるナショナリズム運動が開始された。とりわけ、ホセ・リサールがスペインで発表した『ノリ・メ・タンヘレ』(我に触るな,1887)は植民地支配下のフィリピンにおける諸問題を厳しく告発するものであり、民族運動に影響を与えた。1888年にはバルセロナでフィリピン人によって結社「団結」が結成された。1892年にはホセ・リサールがフィリピンに帰国して「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン民族同盟)」を結成するが、結成間もなくスペインに対する反逆罪で逮捕されるなど弾圧も強化されていった。
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