民族間の通婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
1644年以前から漢人と満洲人は婚姻の伝統があり、遼東半島の国境地帯の漢人兵は、しばしば漢人以外と結婚した。満洲人は移住した漢人兵を受け入れて同化し、遼東半島出身の漢人兵は、満洲式の名前を使用した。ヌルハチの部下のダハイ(中国語版)(達海)は、その一人であったかもしれない。 初期の清は、帰順した漢人と満洲人の結婚を支援した。満洲に亡命した漢人の将軍は、しばしば王族のアイシンギョロ家の女性と結婚した(英語版)。満洲人のアイシンギョロ家の王女も漢人官吏の息子と結婚した。ヌルハチは、撫順で投降した李永芳の孫と結婚した。他のアイシンギョロ家の女性は、漢人の耿継茂(英語版)将軍や尚可喜将軍、呉三桂将軍の息子と結婚した。 帰順した漢人の兵士は、しばしば王族以外の満洲人と結婚した。1632年には、満漢の融和を奨励するために1000組を数える漢人の将軍や官吏と満洲人の女性の結婚が克勤郡王(英語版)ヨト(岳托)とホンタイジにより準備された。この政策は1644年の侵攻以前に始まり侵攻後も続けられた。順治帝は1648年の布告で、漢人が許可を得たうえで旗人の満洲人の娘と結婚することを認めた。この布告は摂政のドルゴンにより考案された。 清王女の夫にはホショイ・エフ(和碩額駙)という称号が与えられた。三藩の一人の耿仲明の息子である耿継茂は、息子の耿精忠と耿昭忠兄弟を順治帝の宮廷に仕えさせた。耿精忠はホンタイジの長男ホーゲの娘と結婚し、耿昭忠はアバタイの孫娘と結婚し、耿継茂自身もアイシンギョロ家の娘と結婚した。アイシンギョロ家の安親王(英語版)ヨロ(岳楽)の娘の和碩柔嘉公主は、耿継茂の別の息子の耿聚忠(英語版)と結婚した。 ドルゴンは、清に帰順した漢人の官吏馮銓を満洲人の女性と結婚させた。馮銓は満洲人の辮髪が漢人に施行される前に意図的に辮髪を採用し、満洲語を学んだ。アイシンギョロ家の女性は、帰順したモンゴル人に求婚される場合もあった。通婚は康熙帝の時代にも続き、康熙帝の四女の和碩愨靖公主は、漢人孫思克の息子の孫承恩と結婚した。
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