民族運動指導者へとは? わかりやすく解説

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民族運動指導者へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/02 14:21 UTC 版)

ヤコプ・フルト」の記事における「民族運動指導者へ」の解説

フルトは1864年ドルパート大学卒業し探検家アレクサンダー・フォン・ミッデンドルフの家庭教師としてヘッレノルム(英語版)へ赴いた。その地で書き上げた最初エストニア語作家ハインリヒ・スタールドイツ語版)についての論文神学士号を取得したフルトは、翌1865年春にヘッレノルムを辞してオデンペ(エストニア語版)へ移った。モーリッツ・ゲオルク・フォン・カウツマン (et) の下での牧師見習い期間経て1867年春にはアクシ(エストニア語版)の牧師職の空席志願した。しかし、会衆は皆承認したにもかかわらず保守的な聖職者らは民族運動家として知られていたフルトの着任拒否した。これに憤激したフルトは聖職資格返上決意し、翌1868年から半年はアレンスブルクで、同年夏から1872年まではドルパートギムナジウム教員務めた一方同時期にドルパートで、フルトは恩師エッテルの娘オイゲニーを妻に迎え、やがてルドルフ (et)、マックス (et)、マトフルデ(後にアレクサンデル・ミャエヴァリャ (et) と結婚)、リンダの2男2女を儲けた。フルトは、子供たち第一にエストニア人」として育てたドルパートでフルトは再び民族運動身を投じ、ヨハン・ヴォルデマル・ヤンセン(エストニア語版)の「ヴァネムイセ協会」(et) へ参加したエストニア語エストニア史・フォークロア英語版に関する講演行い1869年第1回エストニア歌謡祭(フィンランド語版)の組織委員会にも名を連ねた。フルトは7月19日式典2日目聴衆向いエストニア民衆に対して誠実に振る舞うこと、そして、より高度な精神的上の達成向かって努力すること」を呼びかけた。この演説によってフルトの名は一層轟いたが、同時にバルト・ドイツ人との間に溝を生むことにもなった。 フルトはエストニア学生協会英語版)の指導者となり、エストニア民族精神という共通概念醸成求めて「カレヴィポエクの夕べ」(et) も開催した。翌1870年夏にはアレクサンドル学校 (et) 資金補助委員会会長選出され1871年から1872年までは推されエストニア農民協会ドルパート地区会長務めた1872年にはエストニア文学者協会フィンランド語版)初代会長にも就任し、フルトの下でエストニア語での出版学習会開催フォークロア収集が行われるようになった当時ドイツ語風の表記法主流であったエストニア語について、フルトはミフケル・ヴェスケ(エストニア語版)やカルル・ロベルト・ヤコプソン(フィンランド語版)と協力して新たに同語派のフィンランド語参考にした表記法提案した教会発行紙採用されたこの新表記法は、数年のうちに協会外まで普及してゆくこととなった

※この「民族運動指導者へ」の解説は、「ヤコプ・フルト」の解説の一部です。
「民族運動指導者へ」を含む「ヤコプ・フルト」の記事については、「ヤコプ・フルト」の概要を参照ください。

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