民族間の衝突(1990年代)
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「ブータン難民」の記事における「民族間の衝突(1990年代)」の解説
民族間紛争は1990年代に拡大していった。1990年2月には、反政府活動家らがプンツォリン近郊の橋梁に仕掛けた遠隔操作の爆弾を爆発させ、7台の車を爆破した。1990年9月には、ブータン王国軍との衝突が勃発した。このとき王立軍は抵抗者を銃撃しないように命令されていた。反政府勢力の兵士は非合法のブータン人民党に所属するS.K.ネウパネ(S.K. Neupane)および他のメンバーから構成されており、民主主義と全ブータン国民の人権を主張したとされる。進んで加わった者もいれば、強要された者もいる。ブータン政府は、人民党について、反政府集団により設立されたネパール会議派やネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派が背後にあるテロリスト組織であると断定した。人民党は、ライフル、前装式銃、刃物、手製手榴弾で武装した構成員を率いて、ブータン南部の村落を襲撃し、住民から民族衣装を脱がせ、強盗や誘拐、殺人を行ったとされる。政府は治安部隊の死者2名のみを公式に認めているが、衝突により数百人の死傷者が出たとされる。別の情報によれば、治安部隊との衝突で、300名が死亡、500名が負傷、2,000名が拘束されたとされる。上述の暴力、自動車の乗っ取り、誘拐、奇襲、爆破などに加え、学校は閉鎖され(破壊されたものもある)、郵便局、警察、病院、税関、森林などは破壊し尽くされた。ブータン人民党は、政府の治安部隊が殺人、強姦および「恐怖政治」を行っている主張し、アムネスティ・インターナショナルやUNHCRに抗議をした。追放されてネパールに住む人々の支持を受け、ネパールの政権与党であるネパール会議派の書記長はブータンのドゥルック・ギャルポ(英語版)を訪問し、複数政党制民主主義を制定するように求めた。運動の主導者の中には拘束されたり投獄されたものもいた。ブータン政府は1989年の後半に「反政府」活動に関与したとして42名を拘束しており、加えて3名がネパールから引き渡されたということのみを公式に認めている。6名を除く全員は後に解放されたとされるが、この6名は反逆者として投獄され続けた。1990年の9月までに、南部で拘束された300人以上が、ドゥルック・ギャルポ(英語版)によるブータン南部の巡幸の後、解放された。 異民族の存在を成文化しようとする運動に対してブータン政府は抵抗したが、南部の抵抗者たちは党本部の前にブータン人民党の旗を掲げ、党員がネパールの伝統的な刃物であるククリを常時携帯できるよう強く主張した。また、ブータンの民族衣装を着ない権利を要求し、これらの要求が満たされるまで学校と政府機関を閉鎖することを強要した。要求は満たされず、1990年10月までに更なる暴力行為や死者が生じた。同時期に、インドは「王立政府が問題の解決策を探るあらゆる援助」を確約し、インドからブータンへ違法に越境する者の取り締まりを保証した。 1991年初頭まで、ネパール国内の報道機関は、これらの反政府活動家を「自由の闘士」と呼んでいた。 ブータン人民党は4,000人以上の民主主義主張者がブータン王国軍により拘束されたと主張する。一部の拘束者たちは警察署外で殺害され、4,200人前後が国外退去させられたと非難している。 インドから来るネパール系移民を抑止するために、ドゥルック・ギャルポ(英語版)は、より標準的な国勢調査、国境管理の改善、南部での政府の支配の強化を命じた。直近の施策として、1990年の10月には、運動に対抗するために市民による民兵を組織した。また、1990年1月に内務省により多目的個人情報カードが発行されており、国内の移動は更に厳しく制限された。1990年末までに、政府は反政府活動に伴う暴力行為の深刻な影響を認めた。テロ行為により貿易利益やGDPは著しく落ち込んだと発表された。 1992年に民族間紛争は再び激化し、ローツァンパの出国者数は過去最大となった。1996年までの出国者数は総計100,000人を数えた。 多くのローツァンパは、軍により、立ち退きおよび、自らの意志で移動したことを示す「自主移住申請書」への署名を強制されたと主張する:39。 1999年にテクナト・リザル(英語版)は国王による恩赦を受け、解放された後、ネパールの人民人権フォーラムへと向かった。
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