民族運動の高揚と自治公国化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 15:50 UTC 版)
「ブルガリアの歴史」の記事における「民族運動の高揚と自治公国化」の解説
19世紀に民族主義の気運が高まり、1853年のクリミア戦争ではロシア軍の諜報員や軍事顧問が数多く派遣されて情報組織がつくられた。しかし、バルカン半島の戦線が早々に膠着した上に主要大国が敵対あるいは中立するかたちとなったためロシア軍の支援が得られず組織も目立った成果を挙げることなくオスマン帝国の弾圧にあって崩壊。パリ講和会議では当初の目的だったスラヴ人保護は棚上げにされ、さらにブルガリアは深刻な経済危機に見舞われることになった。1876年には4月蜂起(英語版)と呼ばれる武装蜂起が起こったが、オスマン帝国はこれを鎮圧し、多くのブルガリア人が犠牲となった。この事件をきっかけに南下政策をとるロシアが「バルカン解放」を唱えてブルガリアに出兵(汎スラヴ主義)し、1877年に露土戦争が勃発する。この戦争の後、サン・ステファノ条約に基づきブルガリアは自治権を獲得し、ブルガリア公国として事実上独立した。しかし、ブルガリアがロシアの影響下におかれることを危惧した列国はベルリン会議によってブルガリアの領土を変更した。この結果、バルカン山脈を境に北部がブルガリア自治公国、南部が東ルメリ自治州、西部のマケドニア地方はオスマン帝国領に復するとされ、ブルガリア公国は分割された。しかし、1885年にはオスマン帝国領として残っていた東ルメリ自治州を併合して領土を拡大することに成功した。自治公国として独立した当時、マケドニア地方のオスマン帝国からの自治を求めて内部マケドニア革命組織(内部マケドニア・アドリアノープル革命組織)が結成され、後に1903年イリンデン蜂起(英語版)を引き起こすなど、活発に反オスマン帝国活動を行った。
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