民族語による公共図書館の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 03:05 UTC 版)
「ナリマン・ナリマノフ」の記事における「民族語による公共図書館の設立」の解説
ナリマノフは、母語のアゼルバイジャン語で本を読むことができる公共図書館をスルタン・マジド・ガニザーデ(アゼルバイジャン語版)やハビブ・ベイ・マフムードベヨフ(アゼルバイジャン語版)らと作る計画を立て、新聞だけでなくニザーミー、フェルドウスィー、サアディー、ハーフェズ、フズーリー、モッラ・パナフ・ヴァギフ(アゼルバイジャン語版)、アッバースグル・アガ・ヴァキハノフ(アゼルバイジャン語版)、ガスム・ベイ・ザキル(アゼルバイジャン語版)、ミルザ・ファタリ・アフンドフ(アゼルバイジャン語版)およびセイド・アジム・シルヴァニ(アゼルバイジャン語版)といったアゼルバイジャン人の詩人たちの作品を収集した。 ナリマノフは様々な国の出版社や新聞社に手紙を送り、そこで図書館の設立の支援を求めた。その反響として、新聞・雑誌・書籍がロシア全土からだけでなく海外からも大量にと届き始めた。ソフィアからの新聞『イッティファク』(同盟)、カイロから『アル・ニル』(ナイル川)、イスタンブールから『メラメット』(非難)や『タジュマニ・ハギガト』(真実の翻訳)など、帝政下において発禁処分対象とされていた出版物も図書館に届くようになった。 ナリマノフの公共図書館設立を目指す取り組みは、1894年に民族語で読書可能な最初の公共図書館をバクーに開館し、カフカース全体のムスリム人口の教育センターとなった事実として結実した。正確な開館日は不明であるが、研究者は1894年8月1日の可能性が高いと推測している。この説は、1897年にバクー警察署長があげた報告書の中に1894年8月1日からの図書館の利用状況が記載されているためである。別の文書によると、1895年の1月11日が図書館閲覧室の開設日となっている。V・アガシエフによれば、最も信頼できるのは、バクー市議会の教育委員会議長に宛てたナリマノフの請願である。この請願書において、ナリマノフは『新評論』の文芸欄で図書館の開館日を4月12日と発表している。その文芸欄では、入館料は2コペイカとしており、貧しい人々には無料で利用できるとした。1894年4月12日から10月1日までの間には3833人が訪れたとしている。 ナリマノフの公共図書館において発禁文書を若者たちが閲覧していることを危惧したイスラム教の聖職者たちは、公共図書館の活動に対して反対の意を示した。シェイヒュルイスラームは、「バクーで無謀にも許可されたナリマノフの図書館は、冒涜と不従順の恐ろしい温床である」と非難した。ナリマノフは若者の心情に悪い影響を与えたとして告発され、図書館自体は1898年10月5日に「有害な傾向」があるという理由で政府によって閉鎖された。 1899年にナリマノフは、レフ・ポリヴァーノフ(ロシア語版)のロシア語の文法解説本を模範にして執筆された『テュルク=アゼルバイジャン語の簡単な文法』の編集者となり、バクーで出版している。この解説本はアゼルバイジャンの子供たちに民族語のアゼルバイジャン語の文法を教える為の教材として長らく役立てられることになる。
※この「民族語による公共図書館の設立」の解説は、「ナリマン・ナリマノフ」の解説の一部です。
「民族語による公共図書館の設立」を含む「ナリマン・ナリマノフ」の記事については、「ナリマン・ナリマノフ」の概要を参照ください。
- 民族語による公共図書館の設立のページへのリンク