マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラールとは? わかりやすく解説

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マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/25 00:35 UTC 版)

マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラール
生年 1850年8月30日
生地 フィリピンブラカン州
没年 1896年7月4日(満45歳没)
没地 スペインバルセロナ
活動 フィリピン独立運動
所属 ラ・ソリダリダード
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マルセロ・ヒラリオ・デル・ピラール(Marcelo Hilario del Pilar、1850年8月30日 - 1896年7月4日)はフィリピン作家、法律家、フリーメイスン編集者である[1]

略歴

アントニオ・ルナとデ・レテ(中央)、デル・ピラール(右)。1890年、スペイン

彼は1850年に生まれた[2][3]1860年にサン・フアン・デ・レトラン大学で芸術の準学士を取り[4]1880年聖トマス大学で法学の学士を取得し弁護士になった[5]1882年、彼は最初のタガログ語日刊紙『タガログ新聞 (Diariong Tagalog)』(スペイン語とタガログ語の併用紙)を創刊して修道会による地方政治支配を批判し[6][7]1888年スペインに向け密かにマニラを脱出した[8]

マドリードでスペイン在住のフィリピン人留学生たちを組織してプロパガンダ運動を始め、雑誌『ラ・ソリダリダード(La Solidaridad)』(スペイン語で「連帯」を意味する)を創刊した[9]。そこで彼の打ち出した運動の方向性は以下のようなものであった[10]

  • フィリピンはスペインの一地域であること。
  • スペイン政府議会へのフィリピン代表派遣の権利が認められるべきこと[11]
  • スペイン人の聖アウグスチノ修道会員、ドミニコ会員、フランシスコ会員でなくフィリピン人聖職者の養成を行うこと。
  • 言論の自由が認められるべきこと。
  • フィリピン人に法律的平等が与えられること[12]
プロパガンダ運動の3人の指導者 / 左からリサール、デル・ピラール、ポンセ

また資金不足を主な原因として『団結』誌も1895年11月15日をもって停刊となった[13]。かくして10年以上にわたる運動であったにもかかわらず、プロパガンダ運動は改革という面では何ら目立った成果を上げることもできなかったのである。しかし、スペイン人統治者たちはこのような暴力に訴えない提案すらも植民地支配を脅かすものであると危険視した。1896年スペインバルセロナで死んだ[14]

1951年に発行された5ペソ紙幣に肖像が使用されていた。

家族

マルセロには姉が3人、兄が5人、妹が1人いた。1878年マルチャーナ・デル・ピラールとトンドで結婚した。マルセロとマルチャーナ・デル・ピラールはいとこ同士である。7人の子供を残した[5]

脚注・出典

  1. ^ Guerrero, A. M.. Bulacañana: A Heritage of Artistic Excellence. Provincial Youth, Sports, Employment, Art and Culture Office (PYSEACO), Provincial Government of Bulacan. pp. 10–11 
  2. ^ Villarroel 1997, p. 9.
  3. ^ Film # 007773626 Image Film # 007773626; ark:/61903/3:1:3Q9M-CSMJ-S934-4 — FamilySearch.org”. October 17, 2020閲覧。
  4. ^ Schumacher 1997, p. 105.
  5. ^ a b Villarroel 1997, p. 11.
  6. ^ Schumacher 1997, p. 106.
  7. ^ Villarroel 1997, p. 42.
  8. ^ Schumacher 1997, p. 122.
  9. ^ La Solidaridad and La Liga Filipina”. Philippine-History.org. October 17, 2020閲覧。
  10. ^ Keat 2004, p. 756
  11. ^ del Pilar, Marcelo H. (April 25, 1889). “The aspirations of the Filipinos”. Barcelona, Spain: La Solidaridad. July 13, 2010時点のオリジナルよりアーカイブ。October 17, 2020閲覧。
  12. ^ Liberalism in the Philippines – The Revolution of 1898 : The Main Facts”. sspxasia.com. October 17, 2020閲覧。
  13. ^ Today in Philippine History, November 15, 1895, the La Solidaridad stopped publication”. kahimyang.com. October 17, 2020閲覧。
  14. ^ Schumacher 1997, p. 293.

参考文献

関連項目

外部リンク




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