ブルガール、キプチャク方面の征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:19 UTC 版)
「バトゥ」の記事における「ブルガール、キプチャク方面の征服」の解説
詳細は「モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻」を参照 遠征軍はこの年の夏中を移動で過ごし、秋までに当時のジョチ家のオルドがあったイリ方面にまで到着した。1236年から1237年までの冬季に、遠征軍はまずアス人とブルガール人の征服に取り掛かった。宿将スブテイはヴォルガ・ブルガール地方に入るとブルガールを攻撃。その首長バヤン、ジクらが一度遠征軍のモンゴル王侯らに帰順を表明してきたが、まもなく離反しスブタイがこれらの服属工作を任され、これを達成した。 1237年の春、遠征軍はキプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施し、左翼をモンケに任せた。モンケの左翼軍はカスピ海沿岸を進軍し、キプチャクの有力首長バチュマンとアスの首長カチャル・オグラと交戦、捕殺した。遠征軍はこれによりカスピ海沿岸地域で夏営した。この時期にカスピ海沿岸からカフカス北方までの地域にいたブルタス族、チェルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)などが帰順・征服された。
※この「ブルガール、キプチャク方面の征服」の解説は、「バトゥ」の解説の一部です。
「ブルガール、キプチャク方面の征服」を含む「バトゥ」の記事については、「バトゥ」の概要を参照ください。
- ブルガール、キプチャク方面の征服のページへのリンク