ブルガンとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 13:59 UTC 版)
『元史』巻114列伝1后妃伝には「[シリンダリは]大徳3年(1299年)10月に皇后とされ、皇子デイシュを生んだが早くに亡くなった」と記されるが、この記述は甚だ疑わしいものである。 まず、シリンダリが皇后とされた時期であるが、『元史』巻106表1后妃表には「失憐答里元妃弘吉剌氏、早薨。至大元年追尊諡曰貞慈静懿皇后、配享成廟」とあり、また巻74祭祀3には「[大徳]十一年、武宗即位……追尊先元妃為皇后、祔成宗室」と記され、どちらもクルク・カーン(武宗カイシャン)の即位直後に「元妃」シリンダリが追尊されて「皇后」になったと記され、シリンダリが大徳3年に皇后になったとする『元史』巻114列伝1后妃伝と食い違う。 また、皇太子デイシュの母親については、『山居新話』や『輟耕録』といった漢文史料、また『集史』や『ワッサーフ史』といったペルシア語史料全てがバヤウト部出身のブルガンがデイシュの母であったと記し、シリンダリが皇太子の母であったと記すのは『元史』巻114列伝1后妃伝のみである。 以上の点を踏まえ、史実としてはブルガンこそが皇太子デイシュの母親であり、大徳3年に皇后とされたのもブルガンのことであると考えられている。このような改竄が行われたのは、テムルの死後帝位についた武宗カイシャン、仁宗アユルバルワダの母で、シリンダリと同じコンギラト出身のダギの存在が関係していると考えられる。
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