ブルガリア軍の北進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 07:28 UTC 版)
「ルーマニア戦線」の記事における「ブルガリア軍の北進」の解説
マッケンゼン将軍は多国籍軍をブルガリア国内からルーマニア南部の大都市コンスタンツァの占領を目標に北進させた。国境の街トゥトラカン(当時ルーマニア領)に展開していたルーマニア軍39,000名はドイツ軍の支援を受けたブルガリア軍55,000名の攻撃を受けた。 トゥトラカンの戦いは同盟国軍の勝利に終わり、2万名前後のルーマニア兵と380人のルーマニア人将校が降伏した。ルーマニア第3軍は援軍の投入によって国境部隊を大幅に増員し、辛うじてコンスタンツァ目前で攻勢を押し留めた。連合国軍はルーマニア軍が独力で戦いを進める事を望んでおり、援軍を派遣したロシア軍も前述の通り補給不足に苦しんでいた。 こうした状況はブルガリア軍とドイツ軍の結束と対をなし、同盟軍の反撃をより容易にした。9月15日、ルーマニアはトランシルヴァニア侵攻計画の中止と南部戦線への主戦力投入を決定、ルーマニア軍の侵攻は僅か1ヶ月足らずで中止に追い込まれた。 アレクサンドル・アヴェレスク元帥はトランシルヴァニア方面のルーマニア軍主力から戦力を集めてドナウ川に沿ったフラマンダ攻勢(英語版)と呼ばれる大規模な反撃を開始、平行してドブリチでルーマニア軍とロシア軍の共同攻撃も行われた。数的に大幅に上回っていたルーマニア軍の反撃ではあったがドナウ川の増水やオーストリア海軍の攻撃に渡河は難渋した。 それでも一部部隊が対岸に橋頭堡を築いたものの、ドブリチの戦い(英語版)でブルガリア軍に敗北し、続いてトランシルヴァニアでオーストリア軍の反撃が開始されるとルーマニア軍主力も退却した。一連の戦いでルーマニアが攻撃側から防御側に回る事が決定的となった。程なくロシア軍の増援が首都ブカレストとコンスタンの間に到着して、9月23日まで同盟軍の攻勢を防ぐ事に成功した。
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