ブルガリア軍の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:15 UTC 版)
「ヴェルブジュドの戦い」の記事における「ブルガリア軍の動向」の解説
7月19日、ミハイル3世自身が率いる軍隊は首都タルノヴォを出発し、イスクル渓谷とソフィアを通過し、ストルマ川渓谷の北部に進入する。続いてゼメンに軍を進め、Shishkovtsiの村に宿営を張った。翌日、現在のIzvor村近辺にあるセルビアとの国境線に位置する城砦に到着した。その後、ブルガリア軍は二手に分かれて進軍する。ミハイル3世が率いる主力部隊はブルガリアと東ローマの国境に位置するコニャヴォ山脈の北を通過してゼメンの峡谷に向かった。主力部隊を支援する別動隊は整備されている長距離の山道を進み、コニャヴォとDvorishteの間にある村に到着した。 さらにミハイル3世の兄弟ベラウルが指揮する軍隊が彼の領地であるヴィディンを出発したが戦闘には参加せず、戦力の欠如がブルガリアの敗戦の一因となった。ベラウルが参戦しなかった理由については、Izvorの城砦で後方を守備していた、あるいは単に到着が遅れたためだと歴史家たちは推測した。
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