ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役とは? わかりやすく解説

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ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)

第一次世界大戦」の記事における「ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役」の解説

1915年10月14日ブルガリア王国中央同盟国側で参戦したその背景にはブルガリアバルカン戦争で「ブルガリア民族の国」を建国するための領土拡張失敗したことがあった。ブルガリア第一次バルカン戦争勝ち得た領土1913年ブカレスト条約でほぼ全て返還されることとなり、またブルガリア一連の戦争弱体化した1914年8月1日ブルガリア首相ヴァシル・ラドスラホフ(英語版率いブルガリア政府厳正中立宣言したが、中央同盟国連合国どちらもブルガリア働きかけ各々陣営引き込んで参戦させようとした。交渉開始され時点では中央同盟国の方が有利であったというのもブルガリア領土要求セルビア、そして(連合国側での参戦予想されるルーマニア王国ギリシャ王国領土割譲させることによって容易に達成できるからであった結果的に中央同盟国ブルガリアマケドニアドブロジャ東トラキア獲得約束。また1915年秋に情勢中央同盟国にやや有利だったため、ブルガリア中央同盟国味方したセルビア攻撃することで、オスマン帝国陸路での連絡成立させたかった中央同盟国対しブルガリア9月6日協力同意したブルガリア参戦賛否両論だったが、政府参戦決意すると、反対派社会民主主義者一部除いて戦争遂行協力した10月6日アウグスト・フォン・マッケンゼン元帥率いセルビア攻勢ドイツ語版)が始まり10月14日にはブルガリアセルビア宣戦布告した。これにより、セルビア数的に劣勢になり、連合国テッサロニキの北で部隊上陸させた後で劣勢が覆らなかった。ギリシャ1913年6月1日セルビア相互援助条約締結したが(ギリシャ・セルビア同盟英語版))、連合国軍支援不足しているとして参戦拒否したベオグラード10月9日に、ニシュ11月5日陥落すると、ラドミル・プトニク率いセルビア軍開戦時には36万人いたが、この時点では15しか残っていない)は捕虜2万人を連れてアルバニア公国モンテネグロ王国山岳地帯撤退したセルビア軍ケルキラ島再編された後、マケドニア戦線英語版)に投入された。占領されセルビア英語版)はオーストリア=ハンガリーブルガリアの間で分割された。

※この「ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役」の解説は、「第一次世界大戦」の解説の一部です。
「ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役」を含む「第一次世界大戦」の記事については、「第一次世界大戦」の概要を参照ください。

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