ブルガリア民主化以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/09 05:00 UTC 版)
「ゲオルギー・ロザノフ」の記事における「ブルガリア民主化以降」の解説
1989年ソ連崩壊のきざしに伴いブルガリアの事実上の独裁者であったトドール・ジヴコフ第一書記が辞任した。これと前後して、ロザノフの軟禁も解かれることとなった。 ロザノフは、その後国際的な活動を再開し、10年前に出されたユネスコへの提言を実行に移すべく、日本をはじめ、アメリカ、ヨーロッパ各地でサジェストペディアによる教員養成活動を再開し、また、1990年と1994年には、オーストリア中部のザルツブルクと西部のヴィクタースバーグでそれぞれサジェストペディアに関する国際会議を主催した。 ロザノフが国内軟禁から解放された後、最初に教員養成を行ったのは日本であった。1989年1月に、産業能率短期大学(当時)と所属のサジェストペディア研究室、および日本サジェストペディア学会は、軟禁が解けたばかりのロザノフと、共同開発者でサジェストペディア教師トレーナーのエヴェリナ・ガテバを日本に招いて、大学機関の研究者向けサジェストペディア教師養成コースと一般向け講演会を開催した。ちなみにこのときの教師養成コースは、1989年1月25日から2月16日にかけて行われ、ロザノフによる英語での講義、ガテバによるイタリア語コースがこれに含まれた。 ロザノフの活動はこうして再開されたが、10年間の情報断絶を経た当時、世界中で「サジェストペディア」として認知されていたものと、ロザノフ自身の温めてきた「本家」サジェストペディアの間には、外観上も、その基本概念においても、かなりの隔たりが生じていた。国際社会復帰後のロザノフは、その隔たりを埋め、理解を正すことに奔走し、その後のほとんどの期間をそれに費やした。 80歳を過ぎた後もロザノフは、オーストリアのウイーンと本国ブルガリアの間を往復しつつ、世界各国におけるサジェストペディアの復権を目指して活動したが、最晩年の数年間をブルガリア東部スリベンで過ごした後、同地で2012年5月6日、86年の生涯を閉じた。
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