ブルガリア戦域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 05:06 UTC 版)
「第一次バルカン戦争」の記事における「ブルガリア戦域」の解説
トラキア戦線のオスマン帝国軍は、敵戦力の見積もりに関するインテリジェンス上の誤りから、危機に陥っていた。オスマン帝国側は、マケドニア戦線に関するブルガリアとセルビアの政治上及び軍事上の秘密協定に気付いておらず、マケドニア戦線に主力を配備したままであった。当時のオスマン帝国政府に最も強い影響力を有した一人であるドイツ大使のハンス・ヴァンゲンハイム(en)は、オスマン帝国側の情勢判断について、ブルガリア軍の主力はセルビア軍とともにマケドニア戦線に投入されると予想している旨を、10月21日にベルリンへと報告している。その後、オスマン帝国軍のアブドゥッラー・パシャの司令部は、トラキアのアドリアノープル(エディルネ)東方で遭遇するだろうブルガリア軍の戦力を、3個歩兵師団と支援騎兵だけと推定していた。軍事史家エドワード・エリクソンによれば、こうしたオスマン帝国側の想定は、バルカン同盟の戦争目的に対する分析結果に基づくものであったと思われる。しかし、これはトラキアのオスマン帝国軍にとっては致命的な判断であり、絶望的な戦力比でブルガリア軍主力を迎え撃たねばならない結果となった。また、この誤った情勢判断は、トラキア戦線におけるオスマン帝国軍の初期の戦略方針が、破滅的なばかりに攻撃的となったことの原因でもあった。
※この「ブルガリア戦域」の解説は、「第一次バルカン戦争」の解説の一部です。
「ブルガリア戦域」を含む「第一次バルカン戦争」の記事については、「第一次バルカン戦争」の概要を参照ください。
- ブルガリア戦域のページへのリンク