ブルガリア解放以降
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アンヒアロスは1878年1月27日にオスマン帝国の支配を脱し、1886年のブルガリア統一までの間東ルメリ自治州の一部となった。19世紀から20世紀にかけて、ブルガスの急速な発展に伴って町は次第にブルガリア黒海岸南部での重要性を失っていった。町は塩とワインの生産の中心地として再興され、1934年に「po」(隣接)+「more」(海)の語からポモリエと改称された。町には東トラキアからの難民、とくに第一次世界大戦以降のロゼングラト(Лозенград、Lozengrad、トルコ語名:クルクラレリ、Kırklareli)からの難民の居住地となり、他方ギリシャ人は町を追われギリシャ領に新アンヒアロス(ネア・アンヒアロス、Νέα Αγχίαλος、Nea Anchialos)を建設した。
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ブルガリア解放以降
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ブルガリア解放以降、バルチクは農業地帯の拠点として発展し、コムギの輸出拠点として、そして後にはビーチ・リゾート地として南隣のアルベナ(Албена / Albena)とともに発展した。その民族構成は大規模に変動しており、かつてはガガウス人とタタール人、トルコ人が大半であったが、現在ではブルガリア人が多数を占めている。しかしながら、町には今もなお多くのトルコ人が少数派として暮らしており、オスマン帝国時代のモスクはムスリムの住民のために使われている。1913年から1916年、および1919年から1940年まで、バルチクはルーマニアの統治下にあった。
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