中世、オスマン帝国統治時代、およびブルガリア解放以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/19 13:59 UTC 版)
「デヴニャ」の記事における「中世、オスマン帝国統治時代、およびブルガリア解放以降」の解説
スラヴ人がバルカン半島に居住を始めた7世紀以降、彼らはこの古代都市の遺構をデヴィニャ(Devina)と呼んだ。これはインド・ヨーロッパ祖語の「*dhew-(i)na」あるいは「*dhew-eina」(泉、源、水流などの意味)に由来するトラキア語による命名であるが、スラヴ語の「deva」(処女)に関係している可能性もある。中世の間、小さなブルガール人の要塞がこの場所に置かれており、おそらくオムルタグ統治下の9世紀に建造され、10世紀から11世紀にかけて北へ拡張されたものと考えられる。9世紀の広大なブルガール人の共同墓地が発掘されている。ブルガリア皇帝イヴァイロと、その帝位を争ったライバルのイヴァン・アセン3世によって送られた東ローマ軍との間で、1279年7月17日にデヴニャの戦い(en)が行われた。 オスマン帝国のバルカン半島への侵入後、要塞は破壊され放棄され、集落は西へ移動した。村はデヴネ(Devne)の名で税務署として1573年から記載されており、16世紀から17世紀にかけてブルガリア人および外国人によってその他の呼称で、場合によっては川の名称として言及されていることもある。 オスマン帝国からのブルガリア解放以降、町は1934年までデヴネ(Devne)と呼ばれ、その後デヴニャへと改称された。デヴニャ川の下流はオスマン帝国時代より伝統工業の中心であり、水車が多く稼動していた。1969年8月27日、デヴニャは周囲のレカ・デヴニャ(Reka Devnya)およびポヴェリャノヴォ(Povelyanovo)を合併した。
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