中世アニでの独立
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「アルメニアの歴史」の記事における「中世アニでの独立」の解説
詳細は「バグラトゥニ朝アルメニア」を参照 こうして中世アルメニアの地方君主となったバグラトゥニ家であったが、その支配はやがてアッバース朝の手を離れ始めた。852年にはアッバース朝を相手に3年にわたる戦争が開始され、アショト4世の孫は885年に、アルメニア王アショト1世(英語版)として東ローマ=アラブ両国に国家の独立を承認させた。 しかしながら、バグラトゥニ朝の権威がアルメニア全域において盤石であったわけではなく、たとえばアルツルニ家による「ヴァスプラカン王国(英語版)」や王族のムシェーグ(ロシア語版)による「カルス王国(アルメニア語版)」、シュニ家(ロシア語版)の「シュニク王国」など、国内には多数の諸侯による自称政権が林立する状況でもあった。そして、それら分王国群の中心に位置するドヴィン(英語版)やナヒチェヴァンといった要衝を支配していたのは、アラブ人による首長国群であった。この分権状態は、アショトの死後間もなくバグラトゥニ朝の分裂を招いた。次代のスムバト1世(英語版)は909年、東から侵入したサージュ朝(ロシア語版)テュルクとそれに連合したアルツルニ家に攻撃を受け、敗北した末に処刑された。 しかし、スムバトの陰惨な死はサージュ朝とアルツルニ家への反感、そしてスムバトの子アショト2世(ロシア語版)へのアルメニア諸侯の結集をもたらした。アショトは915年に東ローマ軍の協力を得てサージュ朝を退けたが、その後も弟である次代アバス1世(英語版)とともに、服属を要求する東ローマや、侵入するアラブ人、ラワード朝(アルメニア語版)クルドなど外敵への対処に忙殺された。 バグラトゥニ朝が軍備に勤しむ傍ら、アルメニアの政治的・経済的地位をかつての勢いまで盛り立てたのは、ヴァスプラカン王国のガギク1世(フランス語版)であった。その働きによってアルメニアは、以降10世紀を通じて、繁栄と芸術の黄金期を迎えた。鉱物資源の開発により産業が発展し、生産された陶磁器や織物、宝飾品はアジア各地へ輸出された。アッバース朝は異教の教会新設を認めていなかったにもかかわらず、多数のアルメニア教会が新たに建てられた。アバスの子アショト3世(英語版)の時代には首都がアニへ移され、のちにはカトリコス(アルメニア語版)も座する一大宗教都市となった。末期にはその商活動も最盛期に達し、カルスやアルチェシュ(トルコ語版)などの都市は、小アジア、地中海、インドやギリシアからもたらされた交易品で埋め尽くされていたという。 また、バグラトゥニ朝期は教会建築がもっともさかんに行われた時代でもあり、今日現存する遺跡の大半はこの時代に造られたものである。同時代の代表的な建築にはカルス(英語版)、アニ(英語版)、アグタマル聖十字(ロシア語版)などの諸聖堂、そしてマルマシェン(ドイツ語版)、フツコンク(英語版)、タテヴ(英語版)、サナヒン、ハグパット、ゲガルド、セヴァナヴァンク(フランス語版)、マカラヴァンク(フランス語版)などの修道院群がある。 しかし、アショトの子であるバグラトゥニ朝のガギク1世(英語版)が1020年に死去すると、再び王家は分裂した。バシレイオス2世時代に勢力を拡大していた東ローマは、アルメニアの内紛を尻目にガギク2世(英語版)を退位させ、1045年にアルメニア王国は滅びた。1064年にはカルス王国も東ローマに併合されたが、シュニク王国、タシル=ジョラゲト王国(ロシア語版)、ハチェン公国(ロシア語版)の3国は、その後も自治状態に留め置かれた。
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