ブルガリア帝国の主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:40 UTC 版)
「第三のローマ」の記事における「ブルガリア帝国の主張」の解説
913年、第一次ブルガリア帝国のシメオン1世は、コンスタンティノープル郊外でコンスタンディヌーポリ総主教によって皇帝(ツァーリ)として戴冠した。彼が最終的に名乗った称号は「ブルガリア人とローマ人の皇帝にして専制君主」(Tsar i samodarzhets na vsichki balgari i gartsi)というものだった。これはギリシア人の統治者としての地位とローマ帝国の皇帝位の伝統を踏襲した正統性を主張するものだったが、ビザンツ帝国から承認されることは無かった。 その後ブルガリアに対する優位を取り戻したビザンツ帝国は、すぐさまシメオン1世の帝位の黙認を取り消した。914年から924年までの10年間、このブルガリア皇帝の地位を巡って両国は悲惨な戦争を続けた。ビザンツはブルガリアの称する「ローマ人の皇帝」(basileus tōn Rōmaiōn)という称号を認めなかったが、最終的に924年に「ブルガリア人の皇帝」(basileus tōn Boulgarōn)をビザンツ皇帝が認めることで決着した。この決定は927年にブルガリアとビザンツが婚姻を結んだ際にも確認された。ブルガリアの帝号はローマ教皇にも承認され、「ツァーリ」という称号はその後の第二次ブルガリア帝国でも使われ、オスマン帝国に降るまで用いられ続けた。14世紀、第二次ブルガリア帝国は首都のタルノヴォを、ローマとコンスタンティノープルを継承する地、すなわち「第三のローマ」と称していた。
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