ブルガリア軍の攻勢とチャタルジャへの進撃
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「第一次バルカン戦争」の記事における「ブルガリア軍の攻勢とチャタルジャへの進撃」の解説
トラキア戦線において、ブルガリア軍は兵力346,182人を投入し、トラキア東部のオスマン帝国第1軍105,000人および西部のクルジャアリ支隊24,000人と戦った。ブルガリア軍の戦闘序列は、トラキア東部には第1軍(ヴァシル・クチンチェフ中将)、第2軍(ニコラ・イワノフ中将)、第3軍(ラトコ・ディミトリエフ中将)の計297,002人、西部には第2師団(スティリヤン・コヴァチェフ将軍)基幹の49,180人(うち常備軍33,180人、その他16,000人)であった。 最初の大きな戦闘は、アドリアノープルとクルク・キリセ (今日のクルクラーレリ)を結ぶ防衛ラインで起きた。ブルガリア第1軍と第3軍の計174,254人が、オスマン帝国の東部軍96,273人を、ゲチケンリ、スュルオール、ペトラ近郊で打ち破った。この地域にいたオスマン帝国第15軍団は、ギリシャ軍の上陸作戦に備えるためとしてガリボリ半島へと急遽引き抜かれてしまったが、実際にはそのような上陸作戦は実行されなかった。第15軍団の転出によりアドリアノープルとディメトカ (en)の間が無防備となってしまったため、代わりに東部軍隷下の第4軍団が配置された。これら2個軍団の東部軍の戦闘序列からの離脱の結果、トラキア戦線のオスマン帝国軍は2つに分断されてしまった。アドリアノープルの要塞部隊61,250人は孤立してしまい、アドリアノープルの戦い(en)とクルクラーレリの戦い(en)では、ブルガリア第3軍に圧倒されて、さしたる抵抗もできないまま敗北した。ギリシャ海軍がエーゲ海の制海権を握っていたため、戦争計画にあったシリアおよびパレスチナからの軍団の海上輸送は実行できなかった。ギリシャ海軍は、3個軍団というオスマン帝国陸軍の有力な戦力を無力化したことで、間接的ながら決定的な役割を、最重要な緒戦であるトラキア戦線に関して果たしたのである。さらに、ギリシャ海軍は、マケドニアでの作戦が峠を越えた後、ブルガリア第7師団“Rila”に属する48,000人のブルガリア兵をマケドニアからトラキアに急速輸送することで、より直接的な貢献もしている。 クルクラーレリの戦いの後、ブルガリア軍上層部は数日間待機を命じたため、オスマン帝国軍はルレブルガズ-カラアーチ-ブナルヒサールを結ぶ新たな防衛線を構築することができた。しかし、ブルガリア軍は、第1軍団と第3軍団の歩兵107,386人と騎兵3,115騎、機関銃116丁と火砲360門の戦力で攻撃を再開すると、増援を受けて歩兵126,000人と騎兵3500騎、機関銃96丁と火砲342門を集めていたオスマン軍を撃破し、マルマラ海に到達した。この会戦は、ヨーロッパでは普仏戦争終結以来最大の戦いであり、また第一次世界大戦まではこれを超える規模の戦いは無かった。敗れたオスマン軍は、チャタルジャに最終防衛線を引き、首都イスタンブールのある半島防衛を図った。アジア側からの増援部隊も到着したおかげで、オスマン帝国軍はブルガリア軍の進撃を阻止することに成功した。この防衛線の陣地は、1877年の露土戦争中からドイツ人技師フォン・ブルーム・パシャ(von Bluhm Pasha)の設計で建設されていたものであったが、1912年当時にはすでに老朽化していると思われていた。 これらの戦いの間、ブルガリアの第2トラキア師団指揮下の4,9180人は、ハスコヴォ縦隊とロドピ縦隊に分かれて、エーゲ海へと進撃していた。対するオスマン軍のクルジャアリ支隊(クルジャアリ予備師団、クルジャアリ防衛師団および第36連隊の計24,000人)は、サロニカとデデアーチ(現・アレクサンドルーポリ)を結ぶ鉄道線をまたぐ400kmの戦線を防衛する任務を与えられていたが、満足な抵抗はできなかった。11月26日には、オスマン側司令官のヤーヴェル・パシャが部下の将兵10,131人とともに捕虜となった。クルジャアリ支隊の降伏は、ギリシャ軍のサロニカ占領と合わせ、マケドニア戦線のオスマン帝国軍のトラキア駐留軍からの完全な分断へとつながった。 1912年11月17日(ユリウス暦11月4日)、ブルガリア軍はチャタルジャ防衛線への総攻撃を開始した。このときロシア政府は、ブルガリアに対して、もしもイスタンブールを占領するようなことがあればブルガリアに対して開戦する旨の警告を発していたが、それにもかかわらず攻撃は断行された。これは、ブルガリアの指導者たちに現実的な思考が欠けていたことを示す兆候であった。ブルガリア軍の攻撃兵力は176,351人と火砲462門で、守備するオスマン軍の140,571人と火砲316門よりも優勢であったが、オスマン帝国軍は攻撃を撃退することに成功した。 1912年12月3日(ユリウス暦11月20日)にオスマン帝国とブルガリアの間で休戦協定が成立し、その後にセルビアとモンテネグロも続いた。ロンドンで講和交渉が始められた。ギリシャも交渉には参加したが、内心では講和に応じるつもりは無く、エピルス方面での作戦を継続していた。その後、1913年2月5日(ユリウス暦1月23日)にオスマン帝国でエンヴェル・パシャによるクーデターが発生し、キャーミル・パシャ(en)政権が倒されると、講和交渉は決裂した。2月16日、休戦期間が終わり、再び戦闘が始まった。
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