ブルガリア軍の攻勢とチャタルジャへの進撃とは? わかりやすく解説

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ブルガリア軍の攻勢とチャタルジャへの進撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 05:06 UTC 版)

第一次バルカン戦争」の記事における「ブルガリア軍の攻勢とチャタルジャへの進撃」の解説

トラキア戦線において、ブルガリア軍兵力346,182人を投入しトラキア東部オスマン帝国第1軍105,000人および西部のクルジャアリ支隊24,000人と戦ったブルガリア軍戦闘序列は、トラキア東部には第1軍(ヴァシル・クチンチェフ中将)、第2軍(ニコラ・イワノフ中将)、第3軍(ラトコ・ディミトリエフ中将)の計297,002人、西部には第2師団(スティリヤン・コヴァチェフ将軍基幹49,180人(うち常備軍33,180人、その他16,000人)であった最初大きな戦闘は、アドリアノープルとクルク・キリセ (今日クルクラーレリ)を結ぶ防衛ライン起きたブルガリア第1軍第3軍の計174,254人が、オスマン帝国東部軍96,273人を、ゲチケンリ、スュルオール、ペトラ近郊打ち破った。この地域にいたオスマン帝国第15軍団は、ギリシャ軍の上作戦備えるためとしてガリボリ半島へと急遽引き抜かれてしまったが、実際にそのような上陸作戦実行されなかった。第15軍団の転出によりアドリアノープルとディメトカ (en)の間が無防備となってしまったため、代わりに東部軍隷下第4軍団配置された。これら2個軍団東部軍戦闘序列からの離脱結果トラキア戦線オスマン帝国軍2つ分断されてしまった。アドリアノープル要塞部隊61,250人は孤立してしまい、アドリアノープルの戦いen)とクルクラーレリ戦いen)では、ブルガリア第3軍圧倒されて、さしたる抵抗できないまま敗北したギリシャ海軍エーゲ海制海権握っていたため、戦争計画にあったシリアおよびパレスチナからの軍団海上輸送実行できなかった。ギリシャ海軍は、3個軍団というオスマン帝国陸軍有力な戦力無力化したことで、間接的ながら決定的な役割を、最重要緒戦であるトラキア戦線に関して果たしたのである。さらに、ギリシャ海軍は、マケドニアでの作戦が峠を越えた後、ブルガリア第7師団Rila”に属す48,000人のブルガリア兵をマケドニアからトラキアに急速輸送することで、より直接的な貢献もしている。 クルクラーレリ戦いの後ブルガリア軍上層部数日間待機命じたため、オスマン帝国軍はルレブルガズ-カラアーチ-ブナルヒサールを結ぶ新たな防衛線を構築することができた。しかし、ブルガリア軍は、第1軍団第3軍団歩兵107,386人と騎兵3,115騎、機関銃116丁と火砲360門の戦力攻撃再開すると、増援受けて歩兵126,000人と騎兵3500騎、機関銃96丁と火砲342門を集めていたオスマン軍撃破しマルマラ海到達した。この会戦は、ヨーロッパで普仏戦争終結以来最大戦いであり、また第一次世界大戦まではこれを超える規模戦い無かった敗れたオスマン軍は、チャタルジャに最終防衛線を引き、首都イスタンブールのある半島防衛図ったアジア側から増援部隊到着したおかげでオスマン帝国軍ブルガリア軍進撃阻止することに成功した。この防衛線の陣地は、1877年露土戦争中からドイツ人技師フォン・ブルーム・パシャ(von Bluhm Pasha)の設計建設されいたものであったが、1912年当時にはすでに老朽化していると思われていた。 これらの戦いの間、ブルガリアの第2トラキア師団指揮下の4,9180人は、ハスコヴォ縦隊ロドピ縦隊分かれてエーゲ海へと進撃していた。対すオスマン軍のクルジャアリ支隊(クルジャアリ予備師団、クルジャアリ防衛師団および第36連隊の計24,000人)は、サロニカデデアーチ(現・アレクサンドルーポリ)を結ぶ鉄道線をまたぐ400kmの戦線防衛する任務与えられていたが、満足な抵抗はできなかった。11月26日には、オスマン司令官のヤーヴェル・パシャが部下将兵10,131とともに捕虜となった。クルジャアリ支隊降伏は、ギリシャ軍サロニカ占領合わせマケドニア戦線オスマン帝国軍トラキア駐留軍からの完全な分断へとつながった1912年11月17日ユリウス暦11月4日)、ブルガリア軍はチャタルジャ防衛線への総攻撃開始した。このときロシア政府は、ブルガリアに対して、もしもイスタンブール占領するようなことがあればブルガリアに対して開戦する旨の警告発していたが、それにもかかわらず攻撃断行された。これは、ブルガリア指導者たちに現実的な思考欠けていたことを示す兆候であったブルガリア軍攻撃兵力176,351人と火砲462門で、守備するオスマン軍の140,571人と火砲316門よりも優勢であったが、オスマン帝国軍攻撃撃退することに成功した1912年12月3日ユリウス暦11月20日)にオスマン帝国ブルガリアの間で休戦協定成立しその後セルビアとモンテネグロ続いたロンドン講和交渉始められた。ギリシャ交渉には参加したが、内心では講和応じるつもりは無くエピルス方面での作戦継続していた。その後1913年2月5日ユリウス暦1月23日)にオスマン帝国エンヴェル・パシャによるクーデター発生し、キャーミル・パシャ(en政権倒されると、講和交渉決裂した2月16日休戦期間が終わり、再び戦闘始まった

※この「ブルガリア軍の攻勢とチャタルジャへの進撃」の解説は、「第一次バルカン戦争」の解説の一部です。
「ブルガリア軍の攻勢とチャタルジャへの進撃」を含む「第一次バルカン戦争」の記事については、「第一次バルカン戦争」の概要を参照ください。

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