同盟軍の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/15 09:05 UTC 版)
「ハノーファー侵攻 (1757年)」の記事における「同盟軍の反撃」の解説
フェルディナントはすぐに監視軍を改革、ハノーファー軍の士気を一新した。フランス軍が様々な残忍な行為を行ったことで市民がフランス軍に反感をもったこともフェルディナントを助けた。 フリードリヒ2世がロスバッハの戦いで勝利すると、フェルディナントはフランス軍に対し、当時としては珍しい冬季戦役をおこした。フランス軍の状況はすでに悪化しており、リシュリューは会戦よりも撤退を選んだ。彼は直後に辞任、クレルモン伯爵が後任になった。クレルモンはフランス王ルイ15世にフランス軍が略奪者や傷者ばかりという状況を報告した。リシュリューは兵士への賃金の着服などの非行の疑いをかけられた。 フェルディナントの反撃により同盟軍がエムデン港を奪回、フランス軍がライン川の向こうに押し返された。春にはハノーファーが解放された。1757年末にはフランスのヨーロッパにおける全面勝利が近いように見えたが、1758年初にはイギリスとその同盟国が勝利するようになった。
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