コペンハーゲン包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 01:47 UTC 版)
「フレデリク3世 (デンマーク王)」の記事における「コペンハーゲン包囲」の解説
しかし、フレデリク3世がオランダに接近を図ると、デンマークへ対する不信感を消すことのできないカール10世は、その飽くなき征服欲と相まって、正当な理由付けも宣戦布告もなしに翌1659年、再びデンマークへ侵攻した。7月17日にスウェーデン軍本隊がシェラン島のKorsørへ上陸すると、デンマークは再び恐慌状態に陥った。誰もこのような攻撃を予測しておらず、首都コペンハーゲンの守りはとても充分とは言えないものだった。 しかしフレデリク3世は、逃避を勧めた顧問官たちに対して「私は私の巣で死ぬ」("dø i sin rede")と述べ、コペンハーゲンの死守を命じた。8月8日、首都住民の全階層の各代表者により徹底抗戦が叫ばれ、市長ハンス・ナンセン(Hans Nansen)率いる市民も国王への揺るがない忠誠とコペンハーゲン死守の意志を示した。防御線には当初2000人の兵しかあたっていなかったが、カール10世は防御線が整っていなかったコペンハーゲンへの強襲作戦を退け、包囲戦を採るというミスを犯した。9月の初めまでに防御壁の破れは全て補修されて大砲が備えられ、兵は7000人に増員された。この戦闘によって両国は著しい戦死者を出し、凄惨を極めたが、同時期にスコーネでも反乱が起きたため、スウェーデンはコペンハーゲンを攻め切れなくなった。 このような堅い防御にあって、カール10世は当初の目的を変更せざるを得ず、首都包囲戦を開始した。しかし、デンマークはオランダ、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム、そしてハプスブルク家の援軍を得て、同盟軍がユトランド半島に進駐した。10月29日、エーレスンドの戦いでカール10世は敗れ、オランダ軍によってデンマークは開放された。カール10世の野望は挫折し、フレデリク3世は窮地を救われた。しかしカール10世はスコーネに撤退し、そこで陣を張った。フレデリク3世の抵抗や同盟軍の反撃は成功したものの、カール10世に停戦の意志は全くなく、戦争も継続するかに思われた。 しかし1660年2月13日、カール10世は陣中で没し、北方戦争は終結した。5月27日にスウェーデンとデンマークはコペンハーゲン条約を結び、フレデリク3世はロスキレ条約によって失ったトロンハイム地方とボーンホルム島を返還させることに成功した(肥沃なスコーネ地方の割譲の代償)。そして、スウェーデンからの脅威も終焉した。この一連の対スウェーデン戦争を、デンマークでは「カール・グスタフ戦争」と呼んでいる。
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