スウェーデン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 00:43 UTC 版)
詳細は「三十年戦争におけるスウェーデンの介入(英語版)」を参照 ヴァレンシュタインがバルト海・大西洋提督に任命されたことは、スウェーデンのバルト海の覇者としての地位を脅かした。スウェーデン王グスタフ・アドルフが1631年1月にフランスと同盟を組み(ベールヴァルデ条約)、フランスからの資金援助を受けて3万の軍を率いて参戦し、ポメルン、メクレンブルクから皇帝軍を駆逐した。しかし、新教諸侯のブランデンブルク、ザクセン選帝侯は参戦をためらい、マクデブルクは陥落した(マクデブルクの戦い)。ティリーが復旧勅令執行のためザクセンに進軍すると、皇帝派だったザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世はスウェーデン側に寝返った。スウェーデン軍は1631年9月17日、ライプツィヒの北方、ブライテンフェルトで皇帝軍と対峙し、新式の軍制、装備、戦術を有するスウェーデン軍の圧倒的勝利に終わった(ブライテンフェルトの戦い)。さらにスウェーデン軍はヴュルツブルクを攻略し、11月にはアルニム率いるザクセン軍がプラハを攻略した。ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムも、スウェーデン軍と同盟を結ぶに至った。 1632年2月にスウェーデン軍はミュンヘンへ南下、4月15日にはレヒ川の戦いで皇帝派のバイエルン軍に対し、砲兵の効果的な運用で再びスウェーデン軍が圧勝した(レヒ川の戦い)。負傷した総司令官ティリー伯はまもなく戦死し、皇帝軍は大きな損害を被った。 皇帝側はボヘミアに引退していたヴァレンシュタインを再び総司令官に任命して4万の軍を編成し、巻き返しをはかった。1632年夏ヴァレンシュタインはボヘミアに進駐するザクセン軍を駆逐し、ニュルンベルクでスウェーデン軍を破り、ザクセンへ向かった。11月16日、両者はライプツィヒ郊外のリュッツェンで戦闘を開始した。会戦当初、戦局は皇帝軍に不利に動き、援軍の指揮官パッペンハイム(英語版)も来着直後に戦死したが、スウェーデン王グスタフも戦死した。「スウェーデン王戦死」の報は皇帝軍の士気を上げたが、スウェーデン軍は傭兵隊長ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルが指揮を引き継ぎ、結局皇帝軍はこの戦闘に敗れた(リュッツェンの戦い)。 スウェーデンの王都ストックホルムでは、王女クリスティーナが国王に即位する。幼い女王の下スウェーデンの実権は宰相オクセンシェルナが引き継いだ。しかし、スウェーデン軍とプロテスタント諸侯との分裂を引き起こした。オクセンシェルナは1633年4月に、ドイツ諸侯の自由の回復を求めていた南ドイツの帝国クライス、クーアライン、オーバーライン、シュヴァーベン、フランケンとの間にハイルブロン同盟を締結した。これを受けてフランスのリシュリューは、プロテスタント諸侯へのフランスの影響力を保持するためスウェーデンと取引をし、カトリック国であるにも拘わらずフランスもこの同盟に参加する。三十年戦争は新しい局面を迎えることになった。 一方、スペイン軍がイタリアからスイスを通ってライン川上流地域に進出した。 ヴァレンシュタインは独断でスウェーデン軍と和平を交わし、さらに1634年には将官たちに彼個人への忠誠を誓約させたため、暗殺された。 皇帝は嫡男のフェルディナント大公を総司令官に任命し、1634年9月ネルトリンゲンの戦いでスウェーデン・プロテスタント諸侯軍を撃破した。スウェーデン軍は重大な被害を受け、三十年戦争の主導権を失った。この勝利によって南ドイツを取り戻し、プロテスタントから主導権を奪い返したフェルディナント2世は諸侯との和睦に動いた。 フェルディナント2世はマクシミリアン1世とヨハン・ゲオルク1世、ゲオルク・ヴィルヘルムら選帝侯達との和解、スペインの参戦に勇気付けられ、他方では戦闘が続いているにもかかわらず、三十年戦争終結へ向けて復旧令の撤回と引き換えに諸侯の和解を図り、1635年にプラハ条約を締結した。皇帝フェルディナント2世はカトリック至上主義は放棄したが、諸侯の同盟禁止が明記されていたためカトリック連盟解散で優位に立ち、1636年の選帝侯会議でフェルディナント大公のローマ王選出にようやく成功した。 しかしこの条約は皇帝の威光を高めはしたが、結局は一時的なものでしかなかった。スウェーデン軍はかつての勢力を失い、ハイルブロン同盟が崩壊しながらも、宰相オクセンシェルナの手腕によってフランスがハプスブルク家に対抗して直接介入させることに成功したのである。
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