スウェーデン大洪水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/11 14:54 UTC 版)
「ステファン・チャルニェツキ」の記事における「スウェーデン大洪水」の解説
1655年にスウェーデン王カール10世がポーランドに侵攻すると、チャルニェツキはクラクフ包囲戦(英語版)で軍功を挙げたが、結局クラクフを明け渡して撤退することを余儀なくされた。上院議員の大半やヘトマンが一時的にスウェーデン側に寝返ったにもかかわらず、チャルニェツキはヤン2世を支持し続け、海外逃亡を余儀なくされて退位を検討していたヤン2世の大きな支えになり、ヤン2世はチャルニェツキを国王軍のレギメンタシュに任命するとともにさらなる領地を与えた。 ヘトマンたちはこの時点でヤン2世支持に戻ったが、チャルニェツキは彼らの反対を退けてスウェーデン軍にゲリラ戦を挑んだ。スウェーデン軍は機動的ですさまじい火力を有したが、チャルニェツキのゲリラ戦には弱かった。1656年2月中旬のゴウォンプの戦い(英語版) では敗れたが4月のヴァルカの戦い(英語版)に勝利、以降も情勢が大きく変わり続け、5月のクウェツコの戦い(英語版)と6月のクツィニアの戦い(英語版)では2度も敗北した。しかしいずれも限定的な敗北であり、チャルニェツキは規律を保って撤退した。ほかにもヴィエルコポルスカでの対スウェーデン蜂起を扇動して大成功を収めた。7月のワルシャワの戦いはチャルニェツキの意見に反して戦われたものの、その後の戦略でなんとか敗北の影響を最小限に抑えた。チャルニェツキはヤン2世の支持があったにもかかわらず、旧来の貴族からは成り上がりとみられ、ヘトマン就任を反対されたため、チャルニェツキは翌年初にルテニア県のヴォイヴォダの職と「国王軍の将軍および副指揮官」という特別称号しか受けられず、非公式のヘトマンのような立場となった。王冠領野戦ヘトマンはチャルニェツキよりやや劣るものの優れた指揮官であるイェジ・セバスティアン・ルボミルスキ(ルボミルスキ家出身)が任命された。チャルニェツキはこの出来事について「私は塩や畑から始めたわけではなく、私を傷つけるものから始めた」と述べた。ルボミルスキ家は塩貿易と農業で財を成したのに対し、チャルニェツキは軍務から財を成したが、ヘトマン就任の決め手になるのは軍務ではなく、金銭と政治であることを風刺した言葉だった。 1657年、マギェルフの戦い(英語版)でラーコーツィ・ジェルジ2世の軍勢を撃破した。1658年と1659年にはデンマーク・スウェーデン戦争(英語版)でデンマーク軍に加勢、アルス島やコレン包囲戦(英語版)で戦った。
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