スウェーデン支配時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 05:40 UTC 版)
「エストニアの歴史」の記事における「スウェーデン支配時代」の解説
リヴォニア、隣接するリトアニアでキリスト教への改宗が進展すると騎士団の領土拡張の大義名分は無くなり、リヴォニア内部の司教領、騎士団領、都市での内紛が頻発する。1558年にバルト海方面への進出を図るモスクワ大公国はリヴォニアを支配するドイツ騎士団に戦いを挑み、リヴォニア騎士団領の解体を望むデンマーク、スウェーデン、ポーランドはリヴォニアの内情に介入する(リヴォニア戦争)。1561年にリヴォニア騎士団領は崩壊するが、騎士団の支配は後世のエストニアに大きな影響を与え、ドイツ人騎士はバルト・ドイツ貴族としてエストニアに残り、支配者層を形成する。ルブリン連合によって成立したポーランド・リトアニア共和国はロシアに軍を進め、1582年にポーランドとモスクワの間で締結された和睦によってリヴォニアはポーランドの保護下に入る。1583年にリヴォニア戦争が終結した後もモスクワとスウェーデンはエストニア北部の帰属を巡って争い、1595年に締結されたタユシナ条約によってスウェーデンがエストニア北部の支配権を勝ち取った。ポーランド王ジグムント3世との戦争に勝利したスウェーデン王グスタフ2世アドルフは1629年にリヴォニア北西部を獲得し、1645年にはデンマークの領有するサーレマー島がスウェーデンの支配下に入る。スウェーデンの支配下に置かれたリヴォニアはエストニアの北半分にあたるエストラント、エストニア南部とラトビア北部・中部を含む地域はリーフラントに区画される。 17世紀までの戦争の結果、エストニアは「バルト帝国」とも呼ばれるスウェーデンの支配体制に組み込まれるが、スウェーデンの支配が行き届かないエストニア、リヴォニアではバルト・ドイツ貴族が強い力を持つようになっていた。しかし、タルトゥ大学の前身であるアカデミア・グスタヴィアナの設立、聖書のエストニア語訳、ラトビア語訳など、学術の分野は成長し、エストニアでは「良きスウェーデン時代」として記憶されるようになった。1700年から1721年までロシアとスウェーデンの間で起きた大北方戦争ではエストニアも戦渦に巻き込まれ、ロシア皇帝ピョートル1世はスウェーデンの力を奪うためにエストニアで焦土作戦を展開した。ロシア軍による破壊、飢饉、疫病によってエストニア北部とリヴォニアは深刻な被害を受け、1708年にタルトゥが破壊され、1710年にタリンがロシアの占領下に入る。1721年に締結されたニスタット条約によってスウェーデンが放棄した領土にはエストニア北部とリヴォニアも含まれており、それらの土地はロシア帝国に編入された。
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