ローマ王選出
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「ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ローマ王選出」の解説
13世紀半ばからの皇帝フリードリヒ2世と教皇庁の抗争は、中欧における帝国の権威を衰退させていた。教皇庁の軍事力を支える帝国の混乱は教会が所有する土地の治安の悪化をもたらしていた。シチリア王シャルル1世は甥のフランス王フィリップ3世を皇帝に推薦しており、強化されつつあるフランス王権がローマ王・皇帝をも兼ねる可能性が生まれていた。1272年に皇帝候補に挙げられていた名ばかりのローマ王コーンウォール伯リチャードが没すると、教皇グレゴリウス10世は選帝侯たちに神聖ローマ帝国の君主の決定を強く求めた。 国王選挙の主導権を握るマインツ大司教ヴェルナー・フォン・エップシュタイン、ライン宮中伯ルートヴィヒを通して選挙を進めるニュルンベルク城伯フリードリヒの2名はルドルフをローマ皇帝に推薦した。ルドルフは選帝侯の誰とも私闘状態(フェーデ)になく、世俗諸侯からは凡庸な同輩と見なされていた。選挙当時50歳を超えていたルドルフは当時としてはすでに老齢であり、選帝侯たちはルドルフの統治は短期間で終わると考えていた。また、ヴェルナーとフリードリヒは、皇帝フリードリヒ2世が没した後もホーエンシュタウフェン家を支持し続けるルドルフの義理堅さを評価していた。 国王選挙の当時、ルドルフはバーゼル司教ハインリヒと土地・権限を巡って争っており、バーゼル市に包囲を敷いていた。1273年9月20日、ルドルフの陣営を訪れたニュルンベルク城伯からローマ皇帝への選出を知らされ、思いがけない知らせにルドルフは驚愕した。すぐさまバーゼル司教と講和を結んで包囲を解き、選帝侯会議が行われているフランクフルトに向かった。ルドルフはアーヘンで戴冠を受け、その後封土の授与を行った。即位に際してルドルフはグレゴリウス10世に即位の承認を求める嘆願書を提出し、グレゴリウス10世から認可を受けた。ルドルフは帝国人民と教会の両方から即位を認められた大義を得、1275年にローザンヌでグレゴリウス10世と会談を行った。また、ルドルフの即位に伴い、王妃となった妻のゲルトルートはアンナと呼ばれるようになった。 しかし、選帝侯のうちプシェミスル家のボヘミア王オタカル2世のみはルドルフのローマ王選出に反対し、ルドルフを「貧乏伯」と貶した。オタカル2世もローマ王の候補に挙がっていたが、他の選帝侯たちは野心的なオタカルを警戒していた。
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ローマ王選出
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「マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ローマ王選出」の解説
オスマン帝国と同盟したハンガリー王マーチャーシュ1世による侵攻を受け、帝都ウィーンを失ったフリードリヒ3世は、マクシミリアンに公の役職を確保すべく選帝侯を説得した。26歳となったマクシミリアンの、君主としての資質はドイツ諸侯の間でも高く評価されていた。 1486年2月16日、フランクフルトの聖バルトロメウス大聖堂(ドイツ語版)で行われた、ベーメン王を除く6人の選帝侯の投票により、神聖ローマ帝国の後継者ローマ王に選出され、同年4月9日にアーヘンで戴冠式を行った。 また同年には、チロル領主ジークムント大公の下にいた妹クニグンデが、半ば騙される形で、フリードリヒ3世の意に反してバイエルン公アルブレヒト4世と結婚する事件が起こる。
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