コーンウォール伯リチャードとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > コーンウォール伯リチャードの意味・解説 

リチャード (コーンウォール伯)

(コーンウォール伯リチャード から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/14 03:36 UTC 版)

リチャード・オブ・コーンウォール
リヒャルト・フォン・コルンヴァル
Richard of Cornwall
Richard von Cornwall
コーンウォール伯
ローマ王
在位 1257年 - 1272年4月2日
戴冠式 1257年5月27日アーヘン

出生 1209年1月5日
イングランド王国ウィンチェスター
死去 (1272-04-02) 1272年4月2日(63歳没)
イングランド王国、バークハムステッド
埋葬 イングランド王国グロスタシャー、ヘイルズ・アビー
配偶者 イザベル・マーシャル
  サンチア・オブ・プロヴァンス
  ベアトリクス・フォン・ファルケンブルク
子女 後述
家名 プランタジネット家
父親 イングランドジョン
母親 イザベラ・オブ・アングレーム
テンプレートを表示
ローマ王リヒャルトのシール
ローマ王リヒャルトの紋章

初代コーンウォール伯リチャード(Richard, 1st Earl of Cornwall, 1209年1月5日 - 1272年4月2日)は、イングランドの王族でジョン王(欠地王)の次男。神聖ローマ帝国大空位時代における名目上のローマ王(ドイツ王、在位:1257年 - 1272年)[注釈 1]。兄にヘンリー3世、妹にスコットランドアレグザンダー2世の妃ジョーン皇帝フリードリヒ2世の皇后イザベラがいる。

生涯

1227年、兄ヘンリー3世によりコーンウォール伯に叙せられる(コーンウォール公ではなく伯である)。コーンウォールの地はの産地であったことからリチャードは相当な金を有していたらしく富裕であり、フランスルイ9世(聖王)やローマ皇帝フリードリヒ2世ともその金銭から交友関係を持った。1233年、兄の王位を狙って、兄の統治に不満を抱く貴族と連合して反乱を起こしたが失敗する。この時兄に反乱の罪を許され、兄の妃エリナー・オブ・プロヴァンスの妹サンチアと結婚することで和解した。

1254年、フリードリヒ2世の次男コンラート4世が死去して神聖ローマ帝国が王権不在の大空位時代に入ると、1257年選帝侯によるローマ王選挙で、カスティーリャアルフォンソ10世(賢王)と共に次のローマ王候補として推挙されるに至った[1]。この時、リチャードは所領のコーンウォールが金を有することから、莫大な金を使って帝国諸侯に自分を支持するように交渉している。そして選帝侯も、アルフォンソ10世よりもリチャードがローマ王および皇帝としてふさわしいと考えた。血縁としてはアルフォンソ10世の母ベアトリスフリードリヒ1世の孫娘だった。アルフォンソ10世はローマ王フィリップの孫であったためリチャード以上に血縁関係では次の候補として有力だったが、カスティーリャの国内事情などから皇帝になることは不可能な立場にあった[要出典]。アーヘンでローマ王として正式に戴冠したリチャードは皇帝としても推挙されかけるようになった。

ところが1263年、イングランド国内でヘンリー3世とシモン・ド・モンフォールら反国王派による内乱(第二次バロン戦争)が発生する。リチャードは兄とシモンの仲介役を務めて一度は両者を和解させたが、1264年に再び両者が決裂して戦い始めると、リチャードは兄に従ってシモンと戦う。しかし、1265年ルイスの戦いで兄と共にシモンの率いる軍勢に敗れた上、捕虜として兄と共に捕らえられるという醜態を晒したため帝国諸侯から見放されてしまい皇帝としての即位は幻に終わった。晩年には息子ヘンリーも暗殺され(シモンの遺族の差し金であったと言われる[要出典])、不遇と失意のうちに1272年、64歳で死去した。

コーンウォール伯は別の息子エドマンドに受け継がれたが、1300年に彼が子供の無いまま没すると、イングランド王エドワード2世(ヘンリー3世の孫)は寵臣ピアーズ・ギャヴィストンにコーンウォール伯爵位を与えた。

子女

1231年ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの娘イザベルと結婚、4人の子を儲けたが、1240年に彼女は出産の際死亡した。

  1. ジョン(1232年 - 1233年)
  2. イザベラ(1233年 - 1234年) 
  3. ヘンリー(1235年 - 1271年)
  4. ニコラス(1240年) - イザベルとともに死亡

1243年プロヴァンス伯レーモン・ベランジェ4世の娘サンチアと再婚、3人の子を儲けたが1261年に死別した。

  1. リチャード(1246年)
  2. エドマンド(1249年 - 1300年) - コーンウォール伯
  3. オウエン(1252年 - 1296年)

1269年、ファルケンブルク伯ディートリヒ1世の娘ベアトリクスと再婚、子はなかった。

脚注

注釈

  1. ^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアブルグントへの宗主権を備える。

出典

  1. ^ 朝治 他、p. 277

参考文献

  • 朝治啓三 他 『〈帝国〉で読み解く中世ヨーロッパ』 ミネルヴァ書房、2017年

関連項目

先代
新設
コーンウォール伯
1227年 - 1272年
次代
エドマンド

コーンウォール伯リチャード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/27 18:21 UTC 版)

ティンタジェル城」の記事における「コーンウォール伯リチャード」の解説

1233年イングランド王ジョン次男ヘンリー3世の弟であるコーンウォール伯リチャードによって城は建てられた。古のコーンウォール治めた王たちの場所として思われ、またアーサー王伝説所縁土地であるという理由からである。城は古のものと映るように古式様式建築された。リチャードこのようにして余所者に対して警戒心のあるコーンウォールの民の信用高めよう考えていた。城自体戦略的価値全くなかったリチャードの後にコーンウォール伯継いだ者の中で、この城に興味抱いた人物はいなかったので、城は州長官任された。城は荒廃し1330年代には屋根取れてしまった。これ以来、城は住居として用を成さない城跡となった

※この「コーンウォール伯リチャード」の解説は、「ティンタジェル城」の解説の一部です。
「コーンウォール伯リチャード」を含む「ティンタジェル城」の記事については、「ティンタジェル城」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「コーンウォール伯リチャード」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「コーンウォール伯リチャード」の関連用語

コーンウォール伯リチャードのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



コーンウォール伯リチャードのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのリチャード (コーンウォール伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのティンタジェル城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS