シモン・ド・モンフォールの勝利
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「第二次バロン戦争」の記事における「シモン・ド・モンフォールの勝利」の解説
この裁定には両派とも同意せず、シモン・ド・モンフォールは市民の支持を得てロンドンを押さえ、2人の息子をイングランド南部、西部に派遣して王党派の諸侯の鎮圧に当たらせたが、王党派の反撃を受け失敗に終わった。勢いづいたヘンリー3世、コーンウォール伯リチャード、王太子エドワードはウェールズ辺境に軍を集め、改革派諸侯の領地を蹂躙しはじめたが、この頃になってウェールズとの同盟が功を奏し、ウェールズ諸侯は海岸線を襲って王党派の糧道を絶ったため、王軍は味方のワーレン伯領のルイスに移動した。 シモン・ド・モンフォールは、改革派の諸侯とロンドン市民等の民兵を率いてルイスに向かった。王軍はヘンリー3世、コーンウォール伯リチャードの部隊とエドワードの部隊の2つに分かれて駐屯しており、エドワードは優勢な騎士隊を擁していた。シモン・ド・モンフォールの軍は数的に劣勢であったため一計を案じ、民兵を中心とした雑軍に自らの旗を立てて自分が指揮しているように見せかけ、密かに騎士隊を引き連れヘンリー3世の本陣に迫った。 1264年5月13日、エドワードはシモン・ド・モンフォールの旗を立てた軍を見つけ、囮とは気付かずにこれを攻撃し撃破した後、掃討戦を行った。一方、シモン・ド・モンフォールは王の本陣に激しく迫り、まもなくヘンリー3世、コーンウォール伯リチャードを共に捕虜とするのに成功した。 翌5月14日、次の戦いに備えて力を温存していたシモン・ド・モンフォール軍は、掃討戦を終えて疲労して帰還したエドワード軍に襲いかかり、これを打ち破ってエドワードも捕虜とした。ルイスの戦いの完勝によりシモン・ド・モンフォールは実質的なイングランドの支配者となり、各州から平民身分である騎士と都市の代表(市民)を招集した議会(ド・モンフォールの議会)を開き、多くの改革策を施行した。しかし急激な改革は諸侯の不安を煽り、シモン・ド・モンフォールが王位を狙っているのではないかという疑惑を生じさせたため、同年にエドワードが監禁からの脱出に成功すると、諸侯の大部分はエドワードの元に馳せ参じた。
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