シモン・カスペ殺害事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 01:11 UTC 版)
だがユダヤ専門家にとって不運なことに、1933年8月、満州の都市ハルビンでユダヤ系ピアニストのシモン・カスペ(Simon Kaspé)の誘拐・殺害事件が発生したのである。この時の日本側の対応が、ハルビン在住のユダヤ人に不信感を抱かせた。彼はロシア系ユダヤ人で大富豪のヨゼフ・カスペ(Josef Kaspe)の息子であった。 シモンは、たまたまハルビンに帰省した際に何者かに誘拐され、同年12月、遺体で発見された。両手の生爪を剥がされ、耳を削がれた上、頭部に銃弾を撃ち込まれるという凄惨なものであった。のちに容疑者としてロシア人の警察官「マルティノフ」、反ソ活動家「シャンダリ」、反ソ思想の「キリチェンコ」、反ソ運動者「ザイエフ」、農民上がりの「コミサレンコ」と「ベズルーチコ」の六名が逮捕された。ヨゼフ・カスペはゲーペーウーに活動資金を提供していると噂されており、祖国愛による犯罪とされた。満州国警察庁は某方面からの注文によって全員を「情状の余地あり」と評した。関東軍は、裁判で有罪の判決を下した中国人判事を逮捕した[要出典]。日本人判事による再審の結果、被告らには10年から15年の不定期刑が下されたが、翌週には特赦により[誰の?]釈放されたのである[要出典]。 1933年10月3日、反ユダヤ主義の新聞ナシ・プーチ(ロシア語版)がロシアファシスト党の機関紙として出版された。1935年に日本総領事森島守人はこのユダヤ人を中傷するこの機関紙を批難した。満州国政府の要請によって1938年2月1日に一度停止するが、1941年までハルビンで出版されつづけ、その後上海に移動した。 もはや日本の軍部を信頼できなくなったハルビン在住のユダヤ人(当時既にかなりの人数が在住していた)は、事件の2年後には大半が市外に逃れた。彼らの多くは遠く上海へ逃れ、出会った者達に恐怖の体験を語った。軌道に乗ると思われた計画は、大きな壁に直面した。
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