ユダヤ専門家
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1918年に、日本はロシア革命の鎮圧のためシベリア出兵を行い、赤軍と敵対していた白軍を援護した。10万人の兵と9億円の戦費を投入したものの、3千人の死者を出した上に目立った成果もなく、1922年に撤退を余儀なくされる。 この頃、白系ロシア人らの間では、革命はユダヤ人による陰謀であるとの疑惑が広がっていた。レーニンをはじめ、トロツキーやカーメネフ、ジノヴィエフ、スヴェルドロフら多くのユダヤ人、もしくはユダヤ系の人物が革命の主導者として名を連ねていたことが原因とみられる。白軍は『議定書』の写しを兵士に配布し、またシベリアや満州に逃れた白系ロシア人は、行く先々で反ユダヤ主義思想を喧伝した。こうしてユダヤの情報に接した者の中に、安江と犬塚も含まれていた。 2人はシベリアで『議定書』の存在を知り、ユダヤ陰謀論の洗礼を受けた。1922年に帰還した彼らは、ユダヤ人に関する多くの報告書を書いた。安江は1924年、「包荒子」の筆名で著した『世界革命之裏面』で、『議定書』の全訳を掲載した。また1928年にイギリス委任統治領パレスチナのユダヤ人入植地を訪れ、ハイム・ヴァイツマン(ヘブライ大学創立者)、及びダヴィド・ベン=グリオン(後のイスラエル初代首相)と会談し、さらにユダヤ人入植者の勤勉さを目の当たりにするに至って、ユダヤ人の力に魅了されるようになった。 2人は外務省に対し、ユダヤ人への関心を持たせることに成功。以後、日本のあらゆる大使館及び領事館の職員は、彼らの駐在する国々のユダヤ社会の動向を外務省に伝え続けることを要求された。膨大な報告書が上げられたが、いずれも「国際的陰謀」の存在を決定的に証明しなかった。 「ユダヤ専門家」はその後、「大陸派」とある程度まで協力した。陸軍大佐板垣征四郎及び陸軍中佐石原莞爾率いる「大陸派」は、日本から開拓者や資本を満州に誘致しようとしたが、難航した。これが、計画者の胸中に河豚計画の最初の種が蒔かれた瞬間であるとみられる。1931年、満州事変の直前のことであった。
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