ユダヤ人難民の救助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 00:08 UTC 版)
「ヴィリー・ルドルフ・フェルスター」の記事における「ユダヤ人難民の救助」の解説
東京ユダヤ人難民救済会の助けを借り、フェルスターはドイツとその占領地から多数のユダヤ人難民を雇用した。反ナチであったフェルスターは、東京ユダヤ人難民救済会と共に、新しく雇用したユダヤ人とその家族の日本への入国を手配した。ナチ党からだけではなく、東京と横浜のドイツ政府機関からの大きな圧力にもかかわらず、フェルスターはユダヤ人を解雇することを拒否した。フェルスターは、ナチ党の政策から公に自分自身を切り離し、自分自身を「無国籍者」と呼んだ。 東京ユダヤ人難民救済会を設立したハンス・アレクサンダー・シュトラウス(コロムビア・レコード)とカール・ローゼンバーグ(Liebermann-Waelchli & Co.)が、ドイツとその占領地で迫害を受けているユダヤ人から申込みを受け取り、フェルスターに転送した。それを受け、フェルスターは応募者のユダヤ人が日本へ移り住むことができるように手配した。フェルスターの会社で働く従業員の子供たちは学校に通うことができた。このようにして、フェルスターは、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキアなどの国から、かなりの数のユダヤ人難民が日本に来られるように手配した。ローゼンバーグは、1939年にドイツの無国籍のユダヤ人エンジニアに宛てた手紙の中で、フェルスターを「並外れた独立心を持ち、個性に溢れ、偏見のない」人物だと説明した。そのエンジニアは、ユダヤ人であることを示す「J」のスタンプが押されていないパスポートと、フェルスターの会社との雇用契約を提出したにもかかわらず、日本政府はそのエンジニア一家の入国を拒否した。それを受け、ローゼンバーグの言葉通り、フェルスターは、エンジニア一家に対する日本への入国許可を得るために必死に政府機関に働きかけ、他のケースと同様に、許可を得ることに成功した。極めて難しい状況にもかかわらず、日本の当局を説得できたことをフェルスターが大変喜んでいたと、ローゼンバーグは記述している。これ以外にも、いくつかのケースが文書として残されている。1940年末には、フェルスターはウィーンの従業員の子供の1人が強制収容所に送られるのを阻止することに成功している。一家が日本に到着してから数ヶ月後、横浜のドイツ領事により一家は市民権を剥奪されたが、フェルスターは、家族全員が上海ゲットーに強制送還される直前にそれを阻止した。
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