ユダヤ人通過収容所 - 第二次世界大戦
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「リヴザルト収容所」の記事における「ユダヤ人通過収容所 - 第二次世界大戦」の解説
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。これを受けて9月3日にフランスと英国がドイツに宣戦布告。約8か月にわたる奇妙な戦争の後、1940年5月10日、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、次いでフランスに侵攻した。6月14日にパリ陥落、6月22日に独仏休戦協定が締結されると、外国人労働団・歩兵連隊は解散され、リヴザルト収容所は閉鎖された。だが、独仏休戦協定によりフランスがドイツ軍の占領地域(フランス語版)(北部)とヴィシー政府が統治する自由地域(フランス語版)(南部)に二分された後、1941年4月にリヴザルト収容所が再開され、ヴィシー政権下で検挙されたユダヤ人が「ユダヤ人区」と名付けられた区画の「イスラエル人収容所」に収容された。過酷な環境で過密状態であったうえに、子どもは家族から離されて「子ども用居住区」に移された。1941年7月から9月までの間に、この居住区に収容された子ども140人のうち60人が死亡した。フランスの児童救済事業(OSE)、ロシアの職業訓練を通じた復興のための機関(ORT)、難民・移民支援団体シマド(フランス語版)、キリスト教青年会(YMCA)、米国人クエーカー教徒、スイス赤十字社(フランス語版)(CRS)の児童救済事業などの団体は食料品を配給し、「ユダヤ人区」が保健センターを兼ねることになった。 1942年の夏から南部でもユダヤ人の一斉検挙が始まり、1942年8月4日に2つの区画にユダヤ人「選別所」が設置され、ドランシー収容所およびドイツの強制収容所への強制移送が始まった。1942年11月11日にドイツ軍が自由地域の占領を開始し、11月12日にペルピニャンに侵攻した。11月16日にリヴザルト収容所に収容されていたユダヤ人の数は2,471人であったが、11月21日にリヴザルト収容所が閉鎖され、抑留者は南西部ピレネー=アトランティック県のギュルス収容所に移送された。ただし、ロマは、アルル・カマルグ湿地帯の村サリエ(フランス語版)に設置された専用の収容所に送られた。1940年10月24日から1943年11月1日にかけてギュルス収容所に収容されたユダヤ人の数は18,185人にのぼる。このうち3,907人が、1942年8月6日から1943年3月3日にかけて北部のドランシー収容所を経由して、アウシュヴィッツ強制収容所に送られた。 パリ解放後は、他のフランス国内の収容所と同様に、ドイツ人捕虜、対独協力者および経済犯罪者が収監された。
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