極東ユダヤ人大会
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1937年に、安江はハルビンで現地のユダヤ人指導者のアブラハム・カウフマン(Abraham Kaufman)らと会談し、「日本人は改心した」と彼らに確信させた。同年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会がヨゼフ・カスペ所有のモデルン・ホテルで開かれた。関東軍の認可の下、3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ専門家」の安江をはじめ、当時ハルビン陸軍特務機関長を務めていた陸軍少将樋口季一郎らを派遣した。 この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。これを知ったドイツ外相のヨアヒム・フォン・リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。 翌1938年1月、関東軍は「現下ニ於ケル対猶太(ユダヤ)民族施策要領」を策定し、世界各地のユダヤ民族を「八紘一宇の我が大精神に抱擁統合する」という大目標を定めた。またハルビンでは、ユダヤ人自治区を建設する構想について議論するため、第2回、第3回極東ユダヤ人大会が開催された。
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