オトポール事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > オトポール事件の意味・解説 

オトポール事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 05:57 UTC 版)

樋口季一郎」の記事における「オトポール事件」の解説

1937年昭和12年12月26日第1回極東ユダヤ人大会開かれた際、関東軍認可の下で3日間の予定開催され同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年日独防共協定締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下ドイツ反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放前に、彼らに土地与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞行い列席したユダヤ人らの喝采浴びたそうした状況下、翌1938年昭和13年3月ユダヤ人18人がドイツ迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道オトポール駅(Otpor現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国の上租界到達するために通らなければならない満州国外交部入国許可渋り、彼らは足止めされていた。 極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談受けた樋口はその窮状を見かねて、直属部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食衣類燃料配給、そして要救護者への加療実施更には膠着状態にあった出国斡旋満州国内への入植上海租界への移動の手配等を行った日本日独防共協定結んだドイツ同盟国だったが、樋口南満州鉄道満鉄総裁だった松岡洋右直談判して了承取り付け満鉄特別列車上海脱出させた。 その後ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民増え続け東亜旅行社現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満州里経由満州へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている。ただし、早坂隆によると1941年昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合ユダヤ人含まれていると考えられるが、その割合不明であり累計2万到達したかは不明としている。また、松井重松当時案内所主任)の回想には「週一回列車が着くたび、20人、30人ユダヤ人押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配忙殺された」と記されている。そのほか証言として松岡総裁秘書だった庄島辰登は、最初18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5あるいは10人のユダヤ難民到着し3月-4月累計で約50人を救ったという。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかし、ドイツへ外交的配慮からか、多数難民殺到した際の具体的な人数に関する公的文書残されていない。[独自研究?]1941年書かれKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(KKL-JNF)本部現存する6冊目の「栄誉の書」には「樋口将軍-東京、在ハルビン極東国家ユダヤ総領事-エイブラハム・カウフマンの銘入り」とその功績記されている。 「ヒグチ・ルート」で救われユダヤ人の数は、総数最大2万-3万人であった可能性があるとされていた。1939年当時有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」とされている。2万人のユダヤ系難民救われたとも伝えられていた中で、白石仁章はあまりの数の多さ事件存在自体疑問視している。松浦寛はこの2万人という数字は、樋口回顧録出版する際の誤植などから流布したものとしている。早坂隆は、樋口自身原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人例の満洲里駅西方オトポール詰めかけ、入満希望したと書き記されいたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民実数検証混乱をきたす原因になっている指摘している。早坂上記東亜旅行社記録多くユダヤ人ではないか考え数千人と推定している。松浦寛は当時浜洲線車両編成乗務員証言から割り出され100200人という推計追認している。満鉄会では、ビザ入手できなかった厳密な意味での人数100程度推計しているという。 樋口ユダヤ人救助尽力したのは、彼がグルジア旅した際の出来事きっかけとされている。ポーランド駐在武官当時コーカサス地方旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められ一人老人ユダヤ人であり、樋口日本人だと知ると顔色変えて家に招き入れたという。そして樋口対しユダヤ人世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主違いない涙ながらに訴え祈り捧げたオトポール辿り着いたユダヤ人難民報告受けたとき、樋口はその出来事脳裏よぎった述懐している。 この事件日独間の大きな外交問題となり、ドイツリッベントロップ外相当時)からの抗議文書届いたまた、陸軍内部でも樋口対す批判高まり関東軍内部では樋口対す処分求める声が高まったそんな中樋口関東軍司令官植田謙吉大将当時)に自らの考え述べた手紙送り司令部出頭し関東軍参謀長東条英機中将当時)と面会した際には「ヒットラーお先棒担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる。この言葉理解示した東条英機は、樋口不問とした。東条判断と、その決定植田司令官支持したことから関東軍内部からの樋口対す処分要求下火になり、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然な人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。 孫の樋口隆一明治学院大学名誉教授)は2018年6月15日イスラエルテルアビブKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund本部において「ヒグチ・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマンの息子から「季一郎氏のユダヤ人コミュニティー対す前向きな姿勢ユダヤ人救出可能にした」事により「ゴールデンブック」証書授与されている。 ちなみに樋口に関してよく言及される「ゴールデンブック」とは、パレスチナ土地購入植林イスラエル国家の境界線設定など主な業務とする組織Keren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fundユダヤ民族基金)が管理する貢献者献金者の名簿である。

※この「オトポール事件」の解説は、「樋口季一郎」の解説の一部です。
「オトポール事件」を含む「樋口季一郎」の記事については、「樋口季一郎」の概要を参照ください。


オトポール事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「オトポール事件」の解説

ドイツでは、ナチ党政権国民からの絶大な支持を受け、国単位反ユダヤ主義政策進めていたが、同盟国日本ではヨーロッパ各国のようなユダヤ人差別などは皆無であり、むしろ日本では官軍によるユダヤ人擁護ドイツ政府反対を受けつつ、1930年代後半から終戦まで行われた1937年12月第1回極東ユダヤ人大会満州国で開催された際に、この席で日本陸軍陸軍少将樋口季一郎は、前年日独防共協定締結したばかりの同盟国であるドイツ反ユダヤ政策激しく批判する祝辞行い、「ユダヤ人追放前に、彼らに土地与えよと言い列席したユダヤ人らの喝采浴びた。これを知ったドイツ外相リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機樋口擁護しドイツ側それ以上強硬な態度に出なかったため、事無き得た。さらに1938年には五相会議ユダヤ難民移住計画である「河豚計画」が日本政府の方針として決まった。 また同年3月8日に、ユダヤ人18人が害下から逃れるため、満国境沿いにあるシベリア鉄道オトポール駅(現:ザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である上海租界到達するために通らなければならない満州国外交部入国許可渋り、彼らは足止めされていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談受けた樋口はその窮状を見かねて、直属部下であった河村愛三少佐らと共に即日ユダヤ人への給食衣類燃料配給、そして要救護者への加療実施さらには膠着状態にあった出国斡旋満州国内への入植上海租界への移動の手配等を行った。これで逃れることができたユダヤ人の数は数千人から2万人ともいわれる日本日独防共協定結んだドイツ同盟国だったが、樋口南満州鉄道総裁松岡洋右直談判して了承取り付け満鉄特別列車上海脱出させた。これは「オトポール事件」と呼ばれることとなる。この事件日独間の大きな外交問題となり、ドイツ外相リッベントロップからの抗議文書届いたまた、陸軍内部でも樋口への批判高まり関東軍内部では樋口対す処分求める声が高まったそのような中、樋口関東軍司令官植田謙吉大将に自らの考え述べた手紙送り司令部出頭し関東軍総参謀長東條英機中将面会した際には「ヒトラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる。この言葉理解示した東條は、樋口不問とした。東條判断と、その決定植田司令支持したことから関東軍内部からの樋口対す処分要求下火になり、独国からの再三にわたる抗議も、東條は「当然な人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した

※この「オトポール事件」の解説は、「第二次世界大戦」の解説の一部です。
「オトポール事件」を含む「第二次世界大戦」の記事については、「第二次世界大戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「オトポール事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「オトポール事件」の関連用語

オトポール事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



オトポール事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの樋口季一郎 (改訂履歴)、第二次世界大戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS