私生活・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 04:39 UTC 版)
大川周明は東條を評して「下駄なり」と言った。足の下に履くには適するも頭上に戴く器ではないという意味である。 学習院や幼年学校時代の成績は振るわなかった。陸士では「予科67番、後期10番」であり、入学当初は上の下、卒業時は上の上に位置する。将校としての出世の登竜門である陸大受験には父英教のほうが熱心であり、薦められるままに1908年(明治41年)に1度目の受験をするが、準備もしておらず初審にも通らなかった。やがて父の度重なる説得と生来の負けず嫌いから勉強に専心するようになり、1912年(明治45年)に3度目にして合格。受験時は合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たったという。陸大の席次は11番、軍刀組ではないが、海外勤務の特権を与えられる成績であった。 オトポール事件に際し、関東軍参謀長であった東條は、ハルビン特務機関長としてユダヤ人難民を助ける決断を行った樋口季一郎少将を新京の関東軍司令部に呼び出して事情を尋ねた。樋口は、日露戦争に際してユダヤ人が日本を支援したことに明治天皇が述べた感謝の言葉と、「五族共和」「八紘一宇」の理念に言及した上で、ナチス・ドイツ(当時、日本とドイツは日独防共協定を結んでいた)のユダヤ人弾圧政策に日本が追随する理由はない、とユダヤ人に対する人道的対応の正当性を主張した。東條は同意し、樋口の決断を不問とした。関東軍や、独断専行を行う東條にはむしろ批判的であった樋口であるが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」と述べた。 女性に対して禁欲的であり、浮いた話が一切なかった。無類の愛妻家であり、かつ子夫人との夫婦仲は終生にわたって良かった。 詳細は「東條かつ子#英機との夫婦仲」を参照 金銭や蓄財に対しても禁欲的であった。陸軍大臣に就任した昭和15年に、世田谷の用賀に「私邸」を建て始めたが、建坪30坪のささやかな家であり、配給の資材を使って少しずつ工事を進めた。東條は昭和19年7月に首相・陸相・参謀総長などの公職を全て退き、7月22日付で予備役に編入された。その後、東條内閣の閣僚だった内田信也が自動車で用賀に行って「東條の屋敷」をいくら探しても見つからず、苦労して東條の家にたどり着いた経緯を下記のように述べている。 先ごろ初めて東条邸を訪ねましたが、まずここだと車を入れたのが鍋島侯爵〔旧・佐賀藩主〕邸で、次は某実業家の屋敷でした。ようやく探し当てたのは噂には及びもつかない粗末な家で、せいぜい秘書官官舎程度だったのには驚きました。 — 内田信也。〔〕内は引用者が挿入、 首相秘書官を務めていた鹿岡円平が、重巡洋艦「那智」艦長としてマニラ湾で戦死すると、家で飼っていた犬に「那智」と名づけて鹿岡を偲んでいたらしい。 1941年(昭和16年)頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた。 日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた。 部下の報告はメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別のメモに整理し、箱に入れて保存する。また(1)年月順、(2)事項別、(3)首相として心掛けるべきもの、の3種類の手帳に記入という作業を秘書の手も借りずに自ら行っていた。 精神論を重要視し、戦時中、それに類する抽象的な意見をしばしば唱えている。一例を挙げれば、コレヒドール島での日本軍の猛攻に対して、米軍が「精神が攻撃した」と評したことに同感し「飛行機は人が飛んでいる。精神が飛んでいるのだ。」と答えている。 陸軍飛行学校を訪れた時、東條はそこの訓練生にこんな質問をした。「敵の飛行機は何によって墜とすか。」訓練生が機関銃や高角砲で墜とします、と答えると「銃によって墜とすと考えるのは、邪道である。どこまでも、魂によって敵にぶつかっていかなければ、敵機を墜とすことはできない。この気迫があってはじめて機関銃によって撃墜できる。」と訓示した。これを、小谷賢(日本大学教授)は、論理的合理性を外れて精神的なところを重視している、と指摘している。 何代もの総理大臣に仕えた運転手が、「歴代総理のうちでだれが一番立派だったか」と聞いたところ、「東條閣下ほど立派な方はおられない」と答えた。理由は「隅々まで部下思いの方だったから」ということで、「あることをすれば、どこの誰が困り、面目を失するか」と相当の気配りを懸念していた人物だから案外と人気があった。それゆえに総理のときには陸軍大臣を兼任し、最後には参謀総長まで兼任できるだろうと答えた。 東條はドイツ留学時、軍馬の研究に生かすため、欠かさず競馬の観戦に行っていた。しかし、ある日、下宿先に帰ってくると、「競馬に行くのは、もうきょうかぎりで止めにした」と下宿先のエルゼ・シュタム夫人に宣言した。理由は「きょうの競馬の最中、一頭の馬がつまずいて転倒して、脚を折ってしまった。無用の苦痛をあたえないために馬はその場で射殺されたが、その有様があまりにも残酷で、とても見ていられなかった。競馬があんなにむごいものだとは、知らなかった。もう二度とふたたび、競馬には行かない。」とのことで、競馬の残酷な側面に気づかされたためであった。 処刑前日の夕食は米飯、みそ汁、焼き魚、肉、コーヒー、パン、ジャムといった“和洋折衷”のメニューで、東條は「一杯やりたい」などと笑っていたという。
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