参謀総長まで
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「フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ」の記事における「参謀総長まで」の解説
オーストリア軍人の家系に、ウィーン郊外で生まれる。曾祖父は1815年に世襲貴族となった。 1871年にテレジア士官学校を卒業して少尉に任官し、第11歩兵大隊に配属。1877年に陸軍大学を卒業し参謀本部に配属される。配属先の第4歩兵師団で1878年のボスニア・ヘルツェゴビナ占領や1882年の南ダルマチア反乱鎮圧に従軍。1888年から1892年まで、少佐として陸軍大学で戦術教官を務める。1895年‐1899年、クラカウの第1皇帝歩兵連隊長。1899年、少将に昇進しトリエステの第55歩兵旅団長。1903年、中将としてインスブルックの第8歩兵師団長。軍部内では作戦家かつ実戦的・近代的教育法で知られ、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の推薦により1906年に参謀総長に任命された。 軍人としてはきわめて政治的だった彼は、皇位継承者と同様に二重帝国内でのハンガリーの立場を弱めたいと考えていたが、多民族の帝国を安定させるには、アウスグライヒよりもむしろセルビアを自帝国に併合し、三重帝国としてハンガリーの比重を下げるのが良いと考えていた。またダーウィン主義者でもあり、戦争とは国家生存のために行うものであり、国家とは戦争し拡張するために存在すると捉えていた。1910年、男爵に叙される。 しかし、イタリアやセルビアに対する方針から外相アロイス・フォン・エーレンタール伯爵と対立し、1911年に参謀総長を更迭される。しかし1912年のバルカン戦争で緊迫する情勢を受け、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の推挙で復職した。
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