参謀本部次長:「ルーデンドルフ独裁」
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「エーリヒ・ルーデンドルフ」の記事における「参謀本部次長:「ルーデンドルフ独裁」」の解説
ファルケンハインが発動した西部戦線のヴェルダンの戦いは思わしくなく、また彼が東部から兵力を引き抜いた後に東部戦線でロシア軍の攻勢があったことで彼の面目は潰れた。1916年8月28日にファルケンハインは更迭され、ヒンデンブルクが後任の参謀総長に、ルーデンドルフは参謀本部次長(第一兵站総監)に任じられた。 ルーデンドルフはただちに各軍集団、軍、師団の司令部において司令官よりもベルリン参謀本部の指揮下にある野戦参謀本部が指揮をとるように改め、自分の指揮権限を拡大した。これ以降のドイツの戦争は実質的にルーデンドルフによって指導されるようになった。またヴィルヘルム2世と帝国宰相ベートマン=ホルヴェークがそろって国家指導の才能に乏しく、国の政治指導部が空白状態になっていたこともあり、彼は政治にも干渉して「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれる時代を築くこととなった。 情報部を独立部署として発足させ、また外務省の参謀本部の出先機関を外務部とし、同部の下に宣伝を目的とする写真・映像課を設置させた。この課の下に映画会社ウーファが設立された。また鉄道部のヴィルヘルム・グレーナーに軍需生産の中枢として「戦争局」を設置させた。ますます重要な存在と化し始めていた航空隊を陸海軍に次ぐ「第三の軍」と認め、これを参謀本部の直接指揮下に置いた。 参謀本部は軍事はもちろん、新聞や映画や絵画などの統制、宣伝、外交政策、軍需生産などあらゆる分野に手を伸ばすようになった。ドイツが戦争に勝つためには国内のあらゆる分野を全て統制下において、その戦争潜在能力を最大限に引き出して活用する総力戦しか道はなかった。ヒンデンブルクとルーデンドルフの承認によってグレーナーが総力戦体制を「ヒンデンブルク綱領」としてまとめた。あらゆる消費財と食料の徹底的統制を命じ、また最後まで残されていた予備労働力である女性の動員を命じた。しかし総力戦体制は急速に社会の均一化をもたらし、「戦時社会主義」ともいうべき社会状況を発生させた。前線でも数百万人の動員、塹壕戦といった特殊な環境の中で兵士と将校の平等化が起こっていた。後の「ドイツ革命」への下地は着実に築かれていった。 1916年10月に参謀本部は40万人のベルギーの労働者を強制移住させ、またマックス・バウアー大佐の発案で動員されたユダヤ人の調査を開始した。バウアー大佐は『シオン賢人の議定書』ドイツ訳の出版者で「ユダヤの傲岸不遜に抗する会」のミュラー・フォン・ハウゼンをルーデンドルフに紹介している。 宰相ホルヴェークは無制限潜水艦作戦に反対し、ルーデンドルフと対立を深めた。ルーデンドルフは1917年7月に彼を失脚させ、ゲオルク・ミヒャエリスが宰相に就任した。ミヒャエリスはルーデンドルフの忠実な代弁者として行動したが、1917年夏の最初の水兵の反乱、軍需工場のストライキなどにうまく対応できずに早々に辞職し、結局ゲオルク・フォン・ヘルトリング伯爵が宰相となった。 一方戦争指導ではこれまでの東部戦線大攻勢論を撤回して西部戦線の立て直しに力を入れた。連合軍の攻勢に先んじて戦線を後退させ、強固な塹壕陣地帯「ジークフリート線(ドイツ語版)」(連合国は「ヒンデンブルク線」と呼んだ)を構築して防御を固めた。
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