日独伊三国同盟締結とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日独伊三国同盟締結の意味・解説 

日独伊三国同盟締結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「日独伊三国同盟締結」の解説

日独の関係も「オトポール事件」や「命のビザ」などユダヤ人問題対立見せたが、1940年初頭ドイツ軍ヨーロッパ戦線好調から持ち直した9月7日新同盟締結のためにドイツから特使ハインリヒ・ゲオルク・スターマー来日し松岡との交渉始めたスターマーヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦阻止するためとして同盟締結提案し松岡対米牽制のために同意した9月27日にはイタリア含めた日独伊三国同盟締結された。 これは実質的に英米同盟となり日独伊三国同盟拡大し1940年11月ハンガリールーマニアスロバキア独立国が、1941年3月にはブルガリア6月にはクロアチア独立国加盟した。これに対してアメリカの大統領ルーズベルトは「脅迫威嚇には屈しない」や「民主主義兵器廠」などの演説行い三国同盟側に対す警戒国民呼びかけた。一方水面下ではアメリカ側から密使送られ日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解向けて動き存在した。 しかし、三国同盟実現には「親米」といわれた来栖三郎では「力不足」との声が上がり、そこで1940年12月に、これまで左遷されていた陸軍大島浩駐独大使再任された。 また枢軸国一員となったフィンランド1940年8月ドイツ密約を、やはり枢軸国として名を連ねたタイ1941年12月日本日泰攻守同盟条約それぞれ結んだ三国同盟には加盟しなかった。満州三国同盟加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本一体化していた。中華民国南京政府防共協定加盟したスペインフランコ政権)も三国同盟には加わらなかったが、フランコ政権戦争前半期においては協力的な関係を持った

※この「日独伊三国同盟締結」の解説は、「第二次世界大戦」の解説の一部です。
「日独伊三国同盟締結」を含む「第二次世界大戦」の記事については、「第二次世界大戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日独伊三国同盟締結」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日独伊三国同盟締結」の関連用語

日独伊三国同盟締結のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日独伊三国同盟締結のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第二次世界大戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS