執筆の動機
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「谷崎潤一郎訳源氏物語」の記事における「執筆の動機」の解説
谷崎がこの翻訳を行うこととなったきっかけについては、旧訳の序文では「中央公論社の社長嶋中雄作からの依頼による」とされている。嶋中雄作がこのような企画を思いついた理由としては、文部省にいた国語学者の三宅武郎が現代作家による古典作品の現代語化を企画し、嶋中に申し入れたことが発端になっているとされる。ただしこのプランで、谷崎に割り当てられていたのは『源氏物語』ではなく『栄花物語』であったとされており、各作品の「現代語訳」も全訳ではなく抄訳であったと考えられている。もう一つ、嶋中がこの時期に抄訳ではない『源氏物語』の現代語訳の出版を思い立ったきっかけとしては、抄訳ではあるが初めての『源氏物語』の現代語訳を出した与謝野晶子が、今度は抄訳ではない『源氏物語』の現代語訳を出そうとしていることを知り、これに対抗しようとしたためではないかという理由が挙げられることもある。 この他、谷崎自身による理由としては、旧訳の序文にもある「昔から源氏物語に深い関心を抱いてきた」という言葉から自身の内的衝動に求める見解がかつては盛んに唱えられたが、谷崎自身による随筆『にくまれ口』や伊吹和子の証言など、これに反する証言や資料も多く存在することが知られるようになったために、近年ではこれを根拠にする見解はあまり見られない。 正宗白鳥による評論にその根拠を求める見解もある。白鳥は谷崎訳の作業が行われる前に完成した、アーサー・ウェイリーによる『源氏物語』の英語訳を極めて高く評価し、「私はこの英訳の出現によって初めて源氏物語に何が書いてあるのかを知ることが出来た。」と述べており、また一つ前の作品である『春琴抄』を絶賛した白鳥が、同時期の随筆の中では雑誌『改造』に連載されていた谷崎の最新作である戯曲『顔世』を、「前作と同じ程度の技量で同じ程度の作品を作り出すことは芸術家としては全く無意味な行為である」と酷評したことが、「源氏物語の現代語訳」というそれまで誰もなしえなかった大事業への原動力になったのではないかとの指摘もある。 後に1960年(昭和35年)ごろに谷崎松子が伊吹和子に語ったところによると、松子が谷崎に対して語った「お茶やお花やピアノのお稽古などと同じように、自分も教養の一つとして源氏物語を読みたいが、原文のままでは難しすぎるし、いまある訳本も学問的な物でいまひとつわかりやすいものがみつからない。与謝野晶子訳もわかりやすいがダイジェストである。自分や妹のような女性が読めるような現代語の全訳で、嫁入り道具になるような豪華な源氏物語の本が欲しい」という要望に対応するためであるとしている。この「嫁入り道具になるような豪華な源氏物語の本が欲しい」という点について、実際普及版とは別に「豪華愛蔵版」が作られることになった。谷崎は、残された手紙の中で翻訳の文体などと並んで、時にはそれ以上に製本や装幀について深い関心を示し、しばしば積極的な意見を述べている。また雨宮庸藏の日記の中でも谷崎が製本や装幀について関心を示していることを窺わせる記述が存在する。
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執筆の動機
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天保11年(1840年)5月、老中・水野忠邦による「天保の改革」が始まり、印旛沼の開発が計画される。単なる新田開発ではなく、北浦と鹿島灘間の運河開削、さらに印旛沼と江戸湾岸・検見川浦間の運河開削を伴う。東北地方の物資を積んだ船が、太平洋から江戸に直行できる物流幹線を整備する計画だった。利根川流域の環境に与える影響は大きい。『利根川図志』の自序には「皆係利根川之事、吾生其傍、不能無感」とあり、幕府をはばかって控えめな表現になってはいるが、複雑な心情を吐露している。水野忠邦の失脚により印旛沼開発は中止されたものの、その後も再開の動きは絶えなかった。利根川の姿を記録に残したいという宗旦の思いが、『利根川図志』執筆の動機になったと考えられる。
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執筆の動機
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宇垣は1938年(昭和13年)12月から1941年(昭和16年)2月まで軍令部第一部長(作戦部長)の地位にあった。この間 支那事変は膠着状態を脱却できず、日独伊三国同盟締結、仏印進駐などが行われ日米関係は悪化の一途をたどる。宇垣は三国同盟に反対であったが最終的には賛成したこと、支那事変を解決することができなかったこと、また仏印進駐についても自責の念を持っていた。宇垣は日米戦わずとの大方針にもかかわらず、日米戦争が現実のものとなってきた状況に現職の連合艦隊参謀長である身を思い、「公務上の事も、個人的の事も一切構はず、その日その日にまかせて書き綴る事は将来ナニガシカの為に必要と考へる」として執筆を開始した。 プランゲは公刊されることを想定して書かれたものであると見ている。
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執筆の動機
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「ザ・レイプ・オブ・南京」の記事における「執筆の動機」の解説
チャンは少女時代より、両親から「南京大虐殺」の話を聞いていた。しかし小学生の頃、図書館で「南京大虐殺」に関する書物を探したが何も見つからず、学校でその事件について教えられることもなかった。20年後に、この事件に関する記録映画を制作していたプロデューサーに出会い、この事件に再び向き合うことになった。1994年にサンノゼ市近郊で中国系団体「世界抗日戦争史實維護聯合會」が主催した集会に参加したときに、会場に展示されていた日本軍による残虐行為とする写真を目にして衝撃を受け、本書の執筆を決意したとされる。
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