執筆の周辺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 06:58 UTC 版)
細井雄二と、一時的に無職のためパチプロで日々の生活をしのいでいたすがやは、かつて同人サークル「墨汁三滴」に参加しており、当時の仲間だった女性が石森プロで働いている縁から、1971年秋頃に彼女からの緊急呼び出しを受ける。「『怪傑ハリマオ』の再版をするが原稿が紛失しているため、『週刊少年マガジン』の掲載分からトレスして原稿を作り直す作業が必要で、人手が欲しい」と言われ、他の新人漫画家と共に石森プロでこれを担当した。 次いで「墨汁三滴で丸っこい絵を描いていた」という理由で、すがやは『さるとびエッちゃん』のキャラクター商品の絵の仕事を担当する事になった。当時描いた絵はまだ全て石森のチェックを受け、石森がデッサンなどに修正をする事も多かった。 この仕事を始めた直後に「テレビマガジン」が創刊、『仮面ライダー』の漫画を毎月14-18ページほど描く必要が発生したが、『エッちゃん』をはじめ、すがやが描いた絵が石森に似ていたので「だったら『ライダー』も描いてみるか?」と石森が思い、すがやに指名がかかった。山田ゴロが自身のサイト[要文献特定詳細情報]で語るところによると「候補だった石森プロの皆にスケッチブックで描いてもらうと、ほとんどは数枚だけ描いてきたが、すがやは全ページ埋めてきたので、それがすがやの起用に繋がったのでは」との事。すがや自身は映画や小説が好きだった点を買われたのではないかと推測している。すがやは石森プロでは自他と共に「絵が下手」で通っていたので不安だったが、石森は「描き続ければうまくなるし結果もついてくる。チャンスだと思ってやってみろ」と言った。またこの時、漫画版のストーリーはテレビと同じにするという暗黙の了解があったが「同じではつまらないので、漫画ならではのオリジナルにしたい」と提案した所、許可が下りる。石森プロとダイナミックプロは、漫画化を生みの親の関係者が手がけていることで、テレビから逸脱した自由な話を描けたという。 第一回を描くにあたり『テレビマガジン70's ヒーロー創世記メモリアル』(講談社、1998年)では「すがや・細井・土山よしきの三人で担当」と書かれているが[要ページ番号]、すがやによれば自分一人で担当したとの事。石森の作風に似せてネーム(コマ割りや台詞のあらがき)を描いたが三度のリテイクを出され、三度目は締切が近いので、下絵を入れて見てもらう。「構図に気をつけろ」と言われたが、話の内容については何も言われなかった。 しかし下絵で待ったがかかり、デッサンが狂っていることで石森も頭を抱えた。特に冒頭で一文字隼人が少年を抱えてバイクで電車を飛び越えるコマが描けず、すがやはとうとう住んでいた下宿からタクシーを飛ばして、石森がいつも打ち合わせをしている桜台駅近くの喫茶店で石森を待ち、現れるとすぐに下絵の補佐を頼んだ。『ヒーロー創世記メモリアル』では「石森が1話から4話の下描きをした」と書かれているが[要ページ番号]、実際に石森が描いたのはここだけだと言う。色塗りの許可が出た時には、表向きの締切は過ぎており、塗った色もケバケバしいとの事で石森が背景に黄緑を塗り、奥行きをうまく調節した。 連載も三回目になると、石森からの添削は色鉛筆でタッチをつけただけになった。
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執筆の周辺
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1972年5月から連載開始となり、この時も石森から指名がかかった。だが第一回が45ページもあるため、石森プロのマネージャーによって、石森のアシスタント希望者だった山田ゴロがすがやのアシスタントについた。 ところがその後京王プラザホテルのロビーで石森やすがや達が打ち合わせをしていると、壁村耐三編集長(当時)が激怒しつつやって来て「こんな下手な漫画を載せられない。別の奴に替えろ」と、ゲラ刷りを叩きつけた。石森は全然慌てず「自分が責任を持って監修するから、少し長い眼で見てくれ」「クレジットも『まんが・石森プロ』でなく、すがやの名前を出して欲しい」と言い、壁村は渋々これを認める。石森は「名前が石森プロだと、俺が描いてると思われる。こんな下手だと思われるのもシャクだ」と言ったが、マネージャーによると「名前を出した方が張り合いが出て、上手くなるのも早い」が理由との事。これを機会にクレジットは「原作・石森章太郎、まんが・すがやみつる(石森プロ)」に変わった。結局交替にはならなかったが、すがやはこの理由を以下に挙げている。 編集長が成田清美に交代、壁村は「週刊少年チャンピオン」「月刊少年チャンピオン」の編集長に異動した。 『新・仮面ライダー』がアンケートで一位になっていた。 「週刊少年ジャンプ」で、絵がまだイマイチの新人漫画家がヒットを飛ばし、漫画は画力より熱意ととられるようになった。 石森章太郎と石森プロというネームバリューがあった。 秋田書店ではこの後「まんが王」が休刊になり、「別冊冒険王・映画テレビマガジン」にリニューアル。ここでも『ライダー』が連載開始し、すがやの元には成井紀郎もアシスタントとして加わった。 当時の『ライダー』に限らないが、テレビ作品の放送が進むとスケジュールが遅れがちになり、漫画に使うためのシナリオや美術デザインが間に合わなくなる。すがやの仕事でもある時、新怪人が間に合わなくなり、マネージャーから「オリジナルの怪人を描いて」と言われ、作ったのがクラゲウルフだった。作中でクラゲウルフがくわえている生首を描いたのは、成井だという。このクラゲウルフも、すがやのオリジナルがテレビ版に流用された。 この話を監修で読んだ石森は「怪人も話もすべて自分で考えたのがいい。絵はまだ下手だが、数をこなせばうまくなる。これだけ描けば漫画家としてやっているから、これから一人で頑張れ」と言われ、1972年夏に石森の監修が終了した。 このエピソードの直前に『人造人間キカイダー』も始まり、すがやは「小学一年生」などを担当。当時はアメコミを買って、ライダーやキカイダーのアクションシーンの参考にしていた。
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